2001年02月19日
何もない未来へ - 第五章
「もしもし?」
俺は通話ボタンを押してPHSを耳元に近付けるやいなやすぐにそう言葉を発した。普段から早口と言われる俺ではあるが、この時はさらに焦って一気に発音した。それだけ自分以外の生存者からの連絡に興奮していたのだ。だが、俺が電話に出てから数秒、向こうからの返答はない。それだけで物凄い不安に襲われた。俺が数秒と感じたのはもしかしたら一秒もなかったかもしれない。だが、せっかくつかんだ生存者の足掛かり、そこから返答がないということは必要以上に俺を不安にさせた。俺はもう一回受話器に向かって繰り返す。
「もしもし?」
「・・・よかった・・・。つながった・・・。」
それは間違いなく恭子の声だった。
「もしもし、恭子か?生きてるのか?」
こうして電話をかけてきているのに生きてるのかと聞くのも愚問だが、とにかく俺は興奮していた。誰かと会話をしたかった。口を聞かない死体にだけ囲まれるのは早くもうんざりしていた。俺は自分の言葉に対する恭子の返答を待つ。声はすぐに返ってきた。
「うん、うん・・・。大丈夫。」
恭子の声は少し涙声になっている。多分、恭子もやっと自分以外に生存者がいることがわかってほっとしたのだろう。涙声の中には僅かばかりではあるが安堵の色が混じっていた。
「そうか。よかった・・・。そこには他に誰かいるの?」
「・・・ううん、私だけ。私も一回物凄く苦しくなって、モもう駄目かなモって思って、ほとんどそこからは何も覚えてないんだけど、なんとか、助かったみたいで、でも気付いたら、・・・誰もいなくて・・・」
そこまで言って恭子は泣き始めた。無理もない。俺だって自分の感情が感じられなくなる程の衝撃をこの現実から受けているのだ。恭子が多少は強い人間だからといって、普通の神経をしていたんじゃまともに耐えられるはずはないのだ。圧倒的な孤独と絶望、それは心に絶大な負荷をかけてくるものなのだ。
「・・・そうか・・・。俺も大体一緒だよ。25日に一回死にそうになって気を失って、とりあえず昨日の夕方に一回目を覚ましたんだけどまたすぐに寝て、今朝になってやっと起きられるようになったんだ。」
恭子はまだ小さな嗚咽を繰り返している。生存者が自分だけでないことを知って、ふっと張り詰めた緊張の糸が切れたのだろう。俺は少しの間彼女が落ち着くのを待つことにした。俺は俺でやはり安堵感からか体の力が抜け、やはりまだ体力は完全には回復していないのだろう、体が少しフラフラしていることに気付いた。彼女の嗚咽が少しづつおさまっていく様子を電話ごしに聞きながら、周囲を見渡して座るのに適当な場所を探す。今来た方へ振り返ると、ガソリンスタンドの事務所のドアの前に小さなパイプ椅子が置いてあるのが目に入った。俺はそこに座ることにした。ガソリンスタンドの敷地に入り、ちょうど椅子に腰を下ろそうとした瞬間に、恭子がまだすこし鼻づまり気味の声のまま話し始めた。
「そう・・・、洋クンも同じなんだ・・・。もう私どうしたらいいのかわからなくて・・・。
「そうだな・・・。」
おそらく恭子は今日本が、世界がどうなっているのかはまったく知らないのだろうな、と思った。インターネットニュースは27日の夜11時付けのものが国内では最後のものだった。恭子が目を覚ましたのはいつで、ネットとテレビとどっちが長く情報を提供し続けていたかはわからないが、俺とほぼ同時期に発病したことを考えると彼女が目を覚ました頃にはもう情報媒体は壊滅していたことだろう。そして彼女はインターネット、・・・あるいはコンピュータ全般はからきしなのだ。情報の仕入れようがない。
「目が覚めて動けるようになってから、お母さんやお父さんを探してみたんだけどもう二人とも、・・・死んじゃってて、それから急に怖くなって、でもまだそんなには動けなかったし、とりあえずなっちゃんとか信治クンとか、洋クンにも何度も電話したんだけど誰も出なくって・・・。」
「あれ?俺にも電話くれてたの?いつ頃?」
「昨晩、・・・11時くらいと、今朝。」
そういえばこのPHSはずっとバイブにしたまま今着ているものとは別のコートのポケットにしまいこんであった。着信があっても気付きにくい。にしても出かける時着信音量をいじったのに、なんで着信が入っていることにも気付かなかったのだろう。普段ならありえない話だ。
「で、昨晩も今朝も洋も誰も出なかったから、もうみんな死んじゃったのかなって思ってたんだけど、・・・よかった、洋クンだけでも生きてて・・・。」
「信治も出なかったのか・・・。明は?かけてみた?」
「うん。でもやっぱり・・・。」
「そうか・・・。ナツエはね、・・・ウチで、・・・死んだよ・・・。」
「・・・ウソ? 洋クン家で?」
恭子はまた泣きそうな声になった。みんな死んだのだろうと思いつつも、心のどこかでそうではないと思っていたかったのが、ことナツエに関してはその死が確実なものとして知らされたのだ。やはりショックは大きかったのだろう。詳細を語るのもためらわれたが、とりあえず状況の説明くらいはしておこうと言葉を続けた。
「うん。明と信治とナツエと、4人でウチで飲んでたんだ。そしたらまず明に例の斑点が出て・・・。明はまだ元気なうちに帰ったんだけど、ナツエはウチで病状が悪化してそのまま・・・。俺にも信治にもどうすることもできなかった・・・。」
「ナツエも、死んじゃったの?じゃあ信治クンは?」
「わからない。信治にもあの斑点ができてて、それを知ったら慌てて飛び出してったから・・・。」
「みんな、死んじゃったのかな・・・。」
「それはまだわからないさ。現に俺達は今こうして生きてるし、俺は今やっとオマエからの電話に出られたんだ。まだわからないよ。」
俺はそう言って精一杯彼女を励まそうとした。現実としては、一度発病してしまえばそこから生還できる確率は0.001%以下。こうして俺と恭子の二人が生きていることすら奇跡に近いのだが、今それを知らせて恭子の悲しみに追い打ちをかける必要はない。今俺達に必要なのは希望なのだ。たとえそれがほんの小さなものであっても、あるいは偽りであっても。
「・・・うん。そうだよね。」
恭子は自分に納得させるように低いつぶやくような声でゆっくりとそう言った。そしてまた数秒の間が空く。そういえば、彼女は今どこにいるのだろう?この近くだろうか?一番大事なことを聞くのを忘れている。着信に気付かなかったことといい、まったく今日の俺はどうかしてる。もっともこの現実を前に感情が麻痺してしまった時点で既にどうかしているのはわかっていることだったが。ともあれ俺は彼女に今どこにいるのか尋ねようとした。が、俺が口を開こうとした瞬間、こちらの質問が声になるより先に恭子の方から同じことを聞いてきた。
「洋クン、今どこにいるの?」
こちらが言おうとしたことをそっくりそのまま先に言われてしまったので、俺はなんだか少し拍子抜けした感じがした。
「ん、ああ、俺んちの近く。大通り沿いのガソリンスタンドの椅子を失敬して休んでる。オマエは?」
「私は今家。・・・これから洋クンち行っていい?」
「ああ、いいけど、俺んち・・・、」
そう、俺の家のベランダには、今もナツエの死体が転がっているのだ。病状が劇化する前、とりあえず死んでしまったナツエの体を完全にベランダに出し、窓を閉めたきりになっている。一体どうなっているのか。
「何かあるの?」
恭子が怪訝そうに訊ねてくる。俺は言おうかどうか迷ったが、とりあえず先に事実は事実として伝えておくことにした。実際、恭子が来るまでの間にどうにかしようにも、人の死体をそう簡単に短時間に処理することはできないのだ。しかもその死体はナツエ、俺も恭子もよく知った人間なのだ。
「うん、俺んち、ベランダに今も、・・・ナツエが・・・。」
俺がそう言った瞬間、受話器ごしに恭子が息を飲んだのがわかった。
「・・・そう。」
恭子の声は重かった。さっきはやっと少しだけいつもの元気さを取り戻しかけていたのに。俺は救いのないこの現状を恨んだ。さっきまでは気にならなかったが、冷静に考えれば俺だってナツエの死体がベランダに転がっている部屋で寝起きをするのはいい気分はしない。そう言うとナツエにはすまないと思うが・・・。
「・・・でも、やっぱり行く。」
そう恭子は沈黙を破った。意を決したような強い語気だ。
「なっちゃんの、・・・死んじゃった姿は見たくないけど、でも、・・・でももう死んじゃったんだから、せめてできるだけのことはしてあげたいし、・・・何よりもう一人でいたくないし・・・。」
どうやら恭子はナツエが生きていると思いたいから死んだ姿は見たくないが、死んでしまったのならできるだけの葬送をしてやりたいと思っているようだ。案外強いなと俺は思った。そして、・・・やはり友達思いだ。俺は死体というだけでナツエを敬遠しようとしていた自分が少し恥ずかしくなった。
「・・・そうだな。じゃあいつ頃来る?もうすぐ来る?」
「うん。多分15分くらいで行ける。」
「じゃあ部屋で待ってるさ。」
そう言って俺は電話を切った。俺以外にもこの近くで生きている人間がいることがわかって、なんだか妙に安心することができた。しかもそれは見知らぬ誰かではなく、大学に入ってからもう3年の付き合いになるあの恭子なのだ。部屋を出た時は何も希望を持ってやるべきことなど見つからなかったが、これでとりあえずやることができた。恭子を待つことだ。それは少なくともこの世界に満ちた絶望を確認して歩くよりは遥かに希望に満ちたことだ。これから生きていくためにはこの壊滅した凄惨な世界に嫌でも目を向けなければないのはわかっていたが、とりあえず少しの間だけでも一旦現実から少し目を背けて、何か肯定的な要因にすがりたかった。恭子を待つこと。悪くない。俺はパイプ椅子から立ち上がり、部屋に向かって歩き始めた。空は相変わらず灰色の雲におおわれているが、外に出た時よりは幾分明るさを増して空全体が白色に近くなっているように感じられた。タバコがほしいな。俺はそう思ったので、道すがらに自動販売機でいつものマルボロメンソールライトを買い、部屋に帰った。もう人はいないだろうから金を払うのも無意味なものだとは思ったが。道は、相変わらず静かだった。
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