1999年06月19日
やがて消え行く幻達へ
久しぶりに夢を見た。目が覚めた瞬間、あるいは夢の中にいる途中から僕はそれが夢だとわかっていたように思うが、それでも何故かその夢の持つ重苦しさから目を覚ますことによって逃げることはできなかったし、起き上がっても身体中に満ちた異常な倦怠感はずっと一日抜けてくれなかった。それどころか、その夢のイメージは僕の頭にとりついて、一日中何をしている間でもそこを離れてくれなかった。本来陽炎のように曖昧で、すぐに何処へともなく消えてくれるはずの夢というものが、だ。そうして今僕はこのように筆をとっている。自分の中から生まれてきた“夢”というものに駆り立てられたように。まるで自分で自分に決して解けない問いを投げかけられたような不思議な気持ちでこの文章を書いている。そして今の僕には自分に問われた問題の題意すらまだつかめてはいないのだ。ただこうして書くことのみがその問題の真意に近付く唯一の方法だと感じるだけ。ともかくも僕は筆を進めよう。
夢は単純な分かれ道に僕が立っているところから始まった。どこの道かはわからない。どんな景色かも思い出せない。おそらくそこには景色などなかったのだろう。とにかく道だ。行き先が2つに分かれていて、僕はその分かれ目のところで頭を抱えている。僕は自分が頭を抱えている理由すらわからない。道の後ろの方、僕が歩いてきたはずの方向、には何もなく、それ以上の記憶は僕にはない。もしかしたらそこにはもはや道すら存在していなかったのかもしれない。そんながらんどうのような分かれ道で、僕は自分が考え込んで悩んでいる理由すらわからず、ただ憂鬱に頭を抱えてたたずんでいる。後にも先にも歩を進めることはためらわれた。そうして時間が過ぎていくうちに、不意に女の人の声が聞こえた。聞き覚えのあるような声だったような気もするが、やはり誰の声かはわからない。その声は少しばかり苛立った、しかしどこか悲しそうな調子で僕に語りかけてきた。
「行かないの?」
「どこへ?」
「先の方へ。」
「それがどこかわからない。」
いつの間にか僕の隣に立っていた彼女は、その僕の返答を聞いてか一瞬表情に重い悲しみをたたえたように見えたが、その影はすぐにどこかに消えて今度は逆に呆れたような表情になって僕に言った。
「見えてるじゃない。道は2つ。右か、左か、それだけ。右に行けばそこはあなたの故郷。少なくとも今のところのあなたの故郷。そこはあなたの帰りを待っている。故郷に訪れた孤独という冬を救えるのはあなただけだから。あなたが帰ってこなければ、そこは少しずつ、あるいはあなたや私が思っているよりもずっと早くかもしれないけれど、故郷はだんだん崩れていく。冬の寒さに耐えられず、そこはだんだん崩れていく。あなたへの道がつながった今、故郷はあなたの帰りを心から待っている。今、まさにこの瞬間にも。左に行けばそこもまた街。それがあなたにとってどんな意味を持っているのか、それは私にはわからないけれど。」
「僕はそっちに行けばいいのかな?」
「そうすれば故郷は蘇るよ。きっと何事もなかったかのように、そこは新たな春を迎える。あなたはそれを望んでいないの?」
「わからない。ただ、左の街に何があるのか、それも知りたい気がするんだ。」
「一旦そっちに行ってしまえば、あなたは二度と戻って来れない。そして故郷は冬の寒さの中で崩れて死んでしまう。」
「でも右の故郷に帰れば左の街はどうなるんだろう? そこには何があって、僕をどういうふうに迎えてくれるんだろう?」
「それは私にはわからない。ただ言えることは、故郷はきっとあなたをあたたかく迎えてくれる。あなたがいなければただ崩れていくのみの存在が故郷だから。左に行けば、あなたはそのすべてを見捨てて立ち去ることになるの。」
「君は僕に故郷に帰ってほしいんだね。」
「ええ。だって私は故郷からあなたを迎えにきたんだから。左の街はまだあなたを迎えに来ない。さぁ、故郷に行きましょう。」
その彼女の言葉を聞いても、なお僕の足はそこから先に進むことができなかった。何か足枷でもはめられたような、後ろめたい重さが心の中にのしかかって、僕はそこから動くことができなかった。
「ねぇ、きっと左の街も僕が行くのを待っているよ。わからないけど、ただそう感じる。あるいはそれは単に僕の思い違いかもしれないけれど。そして僕は多分そっちに行きたいんだと思う。故郷の冬のことも、多分僕にはわかっていたように思うんだ。だから僕はここから先に進めず立ち止まっている。そう思うんだ。君はそれをただの偽善と思うかもしれない。だけどやっぱりそうなんだよ。」
その言葉がどこまで本当の自分の気持ちだったのかはわからない。でも僕は気付いたらその台詞を口にしていた。隣に立つ彼女の顔を見るのがためらわれた。きっと僕の心が耐えられないくらいの悲壮な表情をしていたに違いないからだ。沈黙。それがどのくらい続いただろう。ふと分かれ道の先に目をやると、右の故郷の影が少しずつ乱れていっているのがわかった。崩壊が始っているのだ。完全に崩れてしまったら、もう二度とそこに行くことはできないだろう。そしてそうなるのにもうそれほど時間がかからないということは何故かその時の僕にはすぐわかった。
「ほら、もう故郷が崩れていく。早く戻らないと。私ももう故郷に帰る。これ以上ここにはいられないから。ねぇ、一緒に行こうよ、お願いだから。」
その彼女の言葉には答えず、僕はやはりまだそこに立ち続けていた。その時僕が心に感じた重々しい苦しみは一体なんだったのだろう。やはり今はそれさえもわからないままだ。そんな感情を感じながら、少しずつ、しかし急速に崩れていく故郷の影を悲しみともなんともつかない気持ちで眺めている時に、僕は何故か不意に静かだが強烈なデジャビュに襲われた。
「ねぇ、もしかして僕は前にも一度ここに来たことがあるかな?」
僕はそう聞いてみた。
「それはわからない。けどあったかもしれないよ、あなたのことだから。」
「うん、そうかもね・・・。」
このやりとりを最後に、彼女はすっと消えていった。おそらくは故郷に帰ったのだろう。もう大方のシルエットが崩れてしまった故郷を、僕はそのままいつまでも眺めていた。何故か歩を進める気にはなれなかった。故郷へ通じていた道が消えていく。その時僕が感じたものは、やはり悲しみだったのだろうか、それとももっと単純な後悔だったのだろうか。そしてふと僕は向きを変え、左の街の方を眺めてみた。その時僕の視界に映ったものは・・・。
喪失という名の下に、やがて消え行く幻達へ。君たちが消えてしまった後、何も残らないがらんどうの道の上で、僕は静かに歌をうたおう・・・。