1998年05月05日
理想郷 〜雲の彼方〜
そこはまるで地獄だった。灼熱の地面に焼けた空気は目に映る世界を無残にねじ曲げ、見渡す限りどこからも、足元からも頭上からも、悲鳴や怒号、すすり泣きや許しを乞う声などが聞こえてくる。立ちこめる臭気、それは硫黄や何かの匂いに混じり、血や腐肉や排泄物の鼻につく刺激もいっしょくたになった想像を絶する異臭。その修羅の中で抜けるように響いてくる何者かの高笑いが高揚した狂気のボルテージをまたさらに高めていく。渦を巻いた叫びが方向感覚も平行感覚さえも奪い去ってしまい、男はその場にたっていることすら困難だった。
男はその眼前に広がる世界にただ呆然としながらも、震える足でその中に一歩を踏み出した。彼のすぐ横では若い女が助けを求めている。彼女は肩にわずかにかかっている薄いボロ切れ以外は何も身にまとっておらず、焼けただれた大地を裸足で歩いたせいで、膝から下は水膨れが破れてさらにそこをあぶったような醜い肉汁が流れた跡がそこここにある。彼女が差し出した小刻みに震える手を、受け取るのが彼は恐ろしくて、急に彼女から目をそらすと足早にそこを歩き去った。もう少し行くと、今度は男達が闘っていた。数え切れないほどの荒々しい男達が、無限の広さのある広場の中で腕をもがれ、相手の指を噛み切って、地面に倒れた者の頭を腐ったキャベツをそうするようにグシャリと踏み潰しながら無我夢中の表情で手につく人間を片端から攻めたてていた。血しぶきに血しぶきが重なり、飛び散った肉塊を振り払う暇さえなく拳を振るい続けている男の身体は、既にくまなく血と肉で覆われ、まるで腐肉の衣服を身にまとっているようなおぞましい姿であった。真紅というにはあまりにもどす黒い赤のすき間から覗く眼からは正気のかけらさえ感じられなかった。そこに映っているのは完全な敵意と、征服感による悦楽の狂気。一瞬目が合っただけで心臓の動きを止められてしまいそうな恐怖を支配したまなざしに、彼は確かに背筋が凍るような感覚を覚えた。
「どうして俺はこんなところにいるのか」
男は階段を上ってきた。その昔、それがどのくらい昔のことだったかはもう彼にもわからないが、彼は下の世界にいた。誰もが疲れた日常を送る、ため息だらけのあの世界に。そしてそこには階段が存在した。誰にも見えるわけではなく、見えたとして誰もが登れるわけでもない。どこに続いているのかは誰も知らない。登った人間は誰一人として帰っては来ないからだ。ただ言えることは、その階段はまっすぐ太陽に向かって伸びていた。そしてその階段を登る人間、下にいる人間は階段は見えなくともそこを登る人間を見ることはできた、は天から差す光を浴びて、ことに神々しい天使のごとき存在に思えた。天国へと続いていく階段。そこを登っていくことは誰もの憧れであった。
一際激しい金切り声に、彼の足はぴたと止まった。見ると、そこでは一人の女が幾人かの男に犯されて叫んでいた。焼けつく地面の上を転がり、全身から蒸気が立ち昇ろうとも男達は一行に構わずに行為を続ける。その中の一人が果てる瞬間に女の左の乳首を勢いよく噛み切った。悲鳴をあげる女を尻目に、別の男がその穴のあいた乳房に指を突っ込み、噴き出すどろりとした血液の果ての心臓を探る。のたうちまわろうにも男達に押さえられ、それさえかなわぬ女は、ただ身を弓のように強ばらせ、悲痛な叫びをあげて涙を流す。虚空を見つめ絶望に見開かれた瞳は、もはや彼に何かを訴えかける力もなくしていた。その光景に耐えられなくなった彼は、両の目を閉じて全力で駆け出した。強く、獰猛な男が自分より弱い男達を戦わせ、生き残った方はまた死ぬまで延々と戦い続けねばならない呪われた闘技場の横を抜け、地面に倒れる幾多もの人を踏みつけながら、それでも彼はなお走った。
「ここは一体どこなんだ」
ある日彼は階段の最初の一段をみつけた。そこに一歩を踏み出すとすぐに次の階段が目の前に現れた。そこに足を運ぶと、これまで乗っていた段は姿を消す。そうして彼は一段ずつ現れては消える階段を昇っていった。後戻りはできなかった。いつしか彼は自分より先にこの階段を昇り始めた人間を視界の彼方に捉えるようになった。が、不思議なことに、その階段を昇る人々、彼らは男の視界には人として映らなかった。下から見ると天使のように思えた彼らが、同じ階段の視点から見ると醜く獰猛な獣に見える。彼にはそんな者達が、欲望のままにすべてを奪う、そんな卑しい魔物に思えた。それでも何故かそんな彼らに嫌悪感を抱くことはなく、彼は一段ずつ足早にその段を上がっていった。彼とその男達の距離は短くもなればさらに開くこともあった。彼は自分より先に階段を昇り始めたものを追い抜くこともたまにあった。そうして彼は一歩、また一歩と雲の彼方へと向かっていった。
阿鼻叫喚の地獄絵図、その現実の中を彼はひた走りに走った。息が切れる。鼓動が一秒毎に早くなっていくのを感じる。全身は既におびただしい量の返り血と彼自身の汗のせいでどろどろになっていた。また一人彼の足の下でうめき声をあげる。口の中は既に乾ききっていた。胃が痙攣を起こす。内容物が逆流を起こす。耳に飛び込んでくるありとあらゆる嘆きと絶望の響き。気付けば彼自身もいつしか叫び声をあげていた。周りにかき消され、とても声にならないような、誰にも届かぬ無情の哀願。そして彼は立ち止まった。そこはこの世界の入り口であり出口でもある場所。階段はない。少なくとも彼の視界には。下を見ると一人、また一人と獣と化した人間が空中を歩きやってくる。らんらんと輝く目は、一体何を求めてここに上がってきているのだろう。後ろでは相変わらずの悲劇の宴。彼は力なくそこに崩れ落ち、雲の切れ目から見える下界を眺めた。彼自身の肉が焼ける。しかし彼にはもう気にならなかった。
「これが俺の求めたものだったのか」
階段を登る途中、彼は何度となく上を目指すのを諦めた。それは疲労のせいもあり、突発的に目覚めた上を目指す獣の輩への嫌悪感でもあり、とかく色々な感情で彼は上へ登ることを拒否しようとした。しかし結局常に、最後まで彼は上を見上げて歩き出した。まだ見ぬ世界、そこに彼の楽園を夢見て。
彼は思う。何故自分はここまで歩いてきたのか。下であった小さな日常。決していいものではない、つまならい、退屈な、とるにたらない世界。しかしときに微笑むことができる程度の幸せはあった世界。それを捨ててまで来るべき世界だったか。狂気の悦楽と絶望の叫起。そんな世界が理想郷なのか。下から憧れた天国は、ただの欲望の無間地獄だった。これから俺は、そんな世界で生きていかなくてはならないのか。そう思うと絶望という言葉さえも通り超えたような完全な無感覚が彼の胸に去来した。だんだんと意識が遠くなっていくのを彼は感じていた。地面につけた手から、足から、蒸発した血液の錆び臭い蒸気が立ち昇ってきている。自分をここまで来させるきっかけとなった衝動とは一体なんだったのだろう。彼はもう一度それを考えた。きっとそれは小さな偶然だったに違いない。なにも好き好んで醜い獣の仲間入りをしたかったわけじゃない・・・。そう思うと、何故か不思議と心が落ち着いた。心も身体もまるで自分のものとは感じられず、意識だけが彼の存在のすべてであるかのような圧倒的な無感覚はまだ続いていたが、もう彼にはそんなこともどうでもよかった。自分の肉が焼けるその臭いが立ちこめる中、遠のきかけた意識の果てで彼の心に静かな風が吹く・・・。
彼は再びその目を閉じ、ゆっくりと静かに立ち上がった。そしておもむろに両手を広げ、雲の上のその大地からさらに上の大気に視線をやると、次の瞬間すっとその空に向かって足を踏み出した。そうすることでしかここから抜け出す方法がないのは彼にはわかっていた。そしてそれが何を意味するのかも。
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