2001年05月21日
夢
今いる時が、夢のように思える。そんな瞬間がある。あるいはそれは夢かもしれない。あるいはそれは違うかもしれない。仮に夢だとして、それはずっと浸っていたいような幸福な夢か、はたまた夢であることを、早く覚めることを願うような救いようのない悪夢か?その前に、この今が夢か現実かを知る術は、果たしてこの世にあるのだろうか。
夢という言葉は、あるいは夢というものは、まるで現実とは思えないような幸福を意味するように思える。しかし同じくまるで現実とは思えないような不可思議な出来事を意味するようにも思える。そしてまた、まるで現実とは思えないような悲劇を意味するようにも。どれが本当の"夢"なのか。あるいはもしかしたら、どれも本当の"夢"ではないのか。夢はただ眠りの中に見る幻想を意味するのみにすぎないのか。そもそも、"本当の夢"などあるのか?"夢"はただ"夢"という言葉の殻を与えられた、ただの幻影にすぎないのだろうか。あるいはそうかもしれない。
夢は現実を超えたところに発現する。現実ではありえないと思えるような事象に対して夢という言葉は適応される。それは可能性。よくも悪くも、現実という硬い殻に囲まれた世界を突き抜けるための可能性。現実の、現実の中にいる間は決して破れない強固な殻を抜けるためのおそらく唯一の可能性。現実の外に出た、その先に待つものが楽園か無間地獄かは、ただ夢見るもののみが知りえる悪魔の秘密。
恐れるな、夢を見よう。今が夢か現かわからなくとも。"夢"か"悪夢"かわからなくとも。今が現なら新たな夢を、今が夢ならそのまた夢を。狭間に揺れよう。ただ可能性を試すために。可能性はあらゆるもの。よい夢かどうかすら今はわからない。この現実という硬い殻を破るには、まず殻の外に出なければならない。現実の中に埋もれたくなければ、まずはその外に身を置かなければならない。あるいはそれは逃避かもしれない。あるいはそれは挑戦かもしれない。あるいは知らず知らずの内に、人は夢を通って現実の外にいるのかもしれない。一つ言えることは、そこでは現実領域における可能性の制限が0となるということだけ。天使の祝福を受けるか、悪魔の生贄となるか、そのどちらにも"夢"は転ぶ。
恐れるな、夢を見よう。今が現なら新たな夢を、今が夢ならそのまた夢を。覚めたくない、夢のような現の中なら本当の夢を、悪夢のような現の中なら新たな夢を。それは"今"をよりよくしてくれるかもしれない。少しはマシにはなるかもしれない。夢は現実を壊すかもしれない。悪夢はさらに加速するかもしれない。ただ夢を、ただ夢を。希望の象徴としての夢ではなく、儚い逃避としての幻想でもなく。可能性にかけられた、現実という名のリミッターを外す、ただそのためだけに。