1997年07月21日
UNTITLED
- ayum
- 18:41
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ある人が言った。「自分が、今が楽しければいいって連中が多すぎる。もっと社会に目を向けて社会のために生きなきゃ駄目だ」、って。それを聞いてまた別の人がこう言った。「そんなのはやりたいヤツだけでやってればいい。俺の興味は社会になんて向いてないんだ。俺は自分の興味の向く道を行く。それがたまたま社会というベクトルに向かわなかっただけ。個人の興味のベクトルを他人に押し付けないでもらおう。ただ遊んでるだけの連中と一緒にしないでくれ」、って。このやりとりを聞いて、また別の誰かが言ったんだ。「あんたらは偉いね。学問をやって社会のため、自分のため、ってか。がんばってくれよ。どうせ実際に社会に出ればその理想も打ち砕かれて俺らとたいして変わらない人生送ることになるさ。バカやれるのも学生のうちだけだし、それだって大事なことだぜ。楽しいことは罪なのかい。その罪を軽くしてくれるのが学問なのかい。なぁ、気分がよくて何が悪い」、って、そう言った。そして僕はこう言おう。「きっと皆が正しくて、同時に誰もが間違ってる。一つの立場の正論は、逆からみれば大きな間違い。それが幾層も重なりあってるだけのことなんだろう。きっと誰もが正しくて、いつも誰もが間違って・・・」、って。そしてきっとまた僕に対して誰かが何かを言い、それをまた誰かが否定する。結局何も結論は出ない。
ずっと昔にニーチェが言ってたじゃないか。「神は死んだ」、って。結局絶対的に正しい立場なんてないんだろう。でも、その「神は死んだ」っていう言葉が絶対的に正しいとしたら、まだ神は生きているよね。そんないいわけをしたいほど、何かにすがってしまいたくなる。“正しい”ことを求めるわけじゃないけど、こう考えていくと時に生きていくことが無意味に思えてくる瞬間がある。どう生きてもそれは正しくて、同時にそれは間違ってもいて・・・。それなら楽しい方がいいに決まってるじゃないか。刹那的な快楽に身をまかせ、気分がよくて何が悪い、とそう言ってのけたい気持ちを、理性の何処かがまた否定する。でもそれはどちらも正しくて、同時にどちらも間違った、大した違いのない無意味な葛藤。「人生とは死に至る病」って言ったのはキルケゴールだっけ。やれやれだね。的を射すぎてて怖いくらい。
結局僕らにできることって、自分の立場がきっと正しいと信じながら、そこに意味というものを仮設して、幻にしがみついて生きていくことくらいかな。それも哀しい気もするけれど。何もない平坦な荒野の中にガラスの街を作り上げ、とびきりの美しさに荒野から目をそらすこと。崩れた街の破片を浴びて、全身に傷を受け血を流すこと。崩れた街のかけらを持って、また違う街を作ったり、何処か違う街へ行ったりすること。そしてまたそれを繰り返す。それだけのことなのかもね。
でも、・・・本当にそんなものなのかな。