2013年07月15日(月曜日)
ニーチェの馬
久しぶりにレンタルで映画を観た。タル・ベーラ監督『ニーチェの馬』。ハンガリーの鬼才、タル・ベーラ監督が自身最後の作品と公言しているこの作品。この映画は1889年のトリノの広場で、疲弊した馬車馬が鞭打たれているのを見つけたニーチェが泣きながらその馬の首をかき抱き、「母さん、私は愚かだ」と言い残して倒れ、ついにその後正気に戻ることはなかったという、鮮烈なそのエピソードにインスパイアされたという。その後、その馬はどうなったのか?その疑問から始まるこの映画は、極限まで台詞を排した静謐で、単調で、重苦しく、救いもなく、だがそれでありながらとても美しい。この後の感想は、ネタバレも含むので観ていない方はご注意ください。
『ニーチェの馬』、この映画が始まるとすぐ、先に紹介したニーチェのエピソードがナレーションで流される。そして白黒の画面で延々と長回しで映される、父親が疲弊した馬車を引く姿。この映画は、この父親と娘の六日間を描いた物語だ。物語といっても、基本は単調な生活が延々と、記録映画のように映されていくだけ。音楽もたった一つ、古い闇の底で沈殿して蠢いているような重苦しい低音が、控えめに流れているだけだ。土煙を上げ、木の葉を激しく舞わせる嵐の中、起きて、着替えて、水を汲み、たった一つのジャガイモを食べる。そんな単調な繰り返しの日常が描かれる。
とりあえず、普段映画というとハリウッドという人は観れない作品だ。何しろ最初にナレーションが入った後、20分程は台詞が一切ない。白黒で叙事詩のように描かれる単調な日常。ようやく来訪者があるのは60分過ぎとなる二日目。でも物語は突然動くわけではない。その男は「風で街は終わってしまった」という。だがその話に父親はとりあわない。三日目に井戸水を狙って訪れた流れ者たちは「アメリカに行く」と言う。
そして四日目、いつもの単調なルーチンの中で、とうとう決定的なことが起きる。井戸水が枯れるのだ。嵐が吹きすさぶ荒野の一軒家であるこの家庭は、当然その井戸水がなくては生きていけない。親子は、引越を決意し、荷物をまとめて家を出る。木の葉が水平に舞うような嵐の中、一本だけ木が生えた不毛の丘が、ロングショットで延々と映される。馬を連れて、荷車を引き、丘の向こうに消えていく親子。その後も余韻をなびかせるように、延々とその景色が流れる。このまま、終わるのかなと思っていたら、丘の向こうから親子が帰ってきた。そして元の家に戻っていく。水がなければ、その場所では生きていけないのはわかりきったことであるのに。二日目の男が言っていた、「街はもう壊れた」というのは本当だったのだろうか。家に着き、荷解きも終わった後、家を外から映したショットで、悲愴というのでもない、諦観というのでもない、悲観的な無表情とでも言えばいいのか、そのような顔で窓の向こうに写る娘の表情を少しずつズームしながらまた延々と映す絵が、空恐ろしく記憶に残っている。
その後、五日目には外の明かりが消え、ランプの灯すら点かなくなる。世界から、明りが消える。六日目には、火がないのでゆでることもできない、生の堅いジャガイモで、暗闇の中で食事をしようとするシーンを最後に、映画は終わる。暗く、静かに、ある意味で、無表情に。死と向き合う闇の中で、それでも「食べなければいけない」という父の台詞が、そうでなくとも寡黙なこの映画における最後の言葉だ。
けれども、そもそも彼らは何故「食べなければいけない」のだろう?もっと言えば、何故生きなければいけないのだろう?映画中でも延々と、何度も繰り返された単調な生活。その絶望的な単調さは、その後生きていたとしても変わらないだろう。悪い言い方をすれば、変化や、進歩から遠い、ただ単調な暮らしを続ける彼らに、最初から生きる意味などあったのだろうか?それでも光すらなくなった最後のシーンで、静かに、当然のように生きようとする父の台詞。死と向かい合う人間の尊厳がこの映画のテーマとしてよく言われるようだけど、個人的にはもう一つ、「生きる」ということそのものの価値への懐疑、正確には「生きることに価値を見出すことへの懐疑」が、隠れているのではないだろうか。生きることに価値があるかないかなのではない。生きるのだと。そもそも、価値とはある基準があって初めて生み出されるものなのだから。むしろ価値にこそ本当は価値などないのだと。難しい映画だ。
四日目まではとにかく、日々のルーチンがそれこそ冗長で退屈なほど繰り返されるこの映画。それでもそのルーチンを、毎回映像として違う角度で切り取って見せ、またその絵がすべて、そのまま静止画のショットとしても非常に美しい、繊細で叙事的で、静けさと単調さが小さな声で呼びかけてくるような絵になっている。だからこそ、一度引き込まれてしまえばその絵の力で単調さにも耐えられる。そして毎日、一つずつその単調さからパズルのピースが抜け落ちるように大事なものが一つずつ消えていき、最後には光すらなくなるその重苦しさ。そこから問われる人間、生。非常に、何というか、無言になる映画だ。これほど印象深い映画はなかなかない。モノクロの灰色の世界に魅入られて、その灰色の空気の中で思考まで灰色に染まるような、そんな映画だった。
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