2013年01月31日(木曜日)

桜宮高校処遇に思う

 大阪の桜宮高校でバスケ部の主将が顧問の継続的な体罰が原因で自殺した事件。非常に痛ましい出来事で、これだけでも思うところはあるのだが、さらに橋下市長の対応を巡って賛否両論、色々な意見が交わされている。ここではそうした詳細な経緯や状況分析、合理的な判断といったものは一旦置いておいて、残された体育科の在校生達について、情緒的な感情論を少しだけ、書いてみたいと思う。

 桜宮高校の体育科は全国大会を目指す強豪チームが多いと聞く。今回問題となったバスケ部もそうだとのこと。もちろん、全国大会を目指して桜宮高校に入学する生徒も多いだろう。その彼・彼女らが、今回の一件で部活動の無期限(現時点では解禁が見えないという意味で)停止を余儀なくされている。厳しい状況にさらされている教師や保護者もそうだが、一番もやもやとした気持ちを抱えているのは体育科の在校生達ではないだろうか。特に現二年生、来春に三年生になる生徒達の心中は、混乱や怒り、悲しみ等で暗澹たるものではないかと察する。

 現状や背景はともあれ、彼・彼女らは三年間を部活に捧げるつもりで頑張ってきた。二年生はこれまでの約二年ずっと。自分達の上の三年生が引退したことでやっとレギュラーの座をつかんだりベンチ入りしたりして、最後の大会を心待ちにしていた人も多いだろう。それが突然、ある日を境に、思ってもみない形で世間の注目にさらされ、部活も活動停止となり、最後の大会に出場できる目途も立たずにいるわけだ。単純に大会にかける気持ちだけでも混乱を来たすだろうし、体育での推薦で大学進学を狙っていた生徒などは最後の大会に出場できないことが自身の進路・将来にまで影響しかねない。その不安は、如何ばかりのものだろうか。

 桜宮高校の在校生への処遇は、第二次世界大戦後にナチスの片棒を担いだとして音楽活動の停止を余儀なくさせられたフルトヴェングラーを思わせる。あるいは、一夜にしてそれまでの価値観が崩壊したという点では終戦当時の日本の子供達の状況にも近いかもしれない。塩野七生『サイレント・マイノリティ』では、当時の子供達の状況が端的にこう書かれている。

終戦を境にして、一夜のうちに権威は崩壊し、昨日までの威張り腐っていた人々はオロオロすることしか知らず、教科書は墨で塗りつぶされ、そして、何にも増して苦しまされたあの飢餓感。

 というわけだ。ある事件をきっかけに、これまでの指導は、環境は間違っていたと全否定され(教科書に墨を塗られ)、行き場を無くした目的意識やモチベーションは精神的な飢餓をもたらす。このある"点"を境とした劇的な価値観の転換という点で、桜宮高校の在校生達は非常にラディカルな状況にさらされていると感じる。

 ただ、フルトヴェングラーは1947年には再びベルリンフィルの指揮台の上に立つことができたし、戦後の子供達も、ある"点"を境とした価値観の大転換に戸惑いつつも、その後の人生を再構築する時間はあった。ただ、高校生たちはどうだろうか?現在高校二年生、新三年生となる生徒達の時間は二度と帰って来ない。

 大人の立場からすれば"一年のガマン"かもしれないが、在校生の立場からすればその一年は人生の中でポッカリと抜けた、失われた一年となる。高校生という多感で、文字通り二度と帰って来ない時間環境の中で、その一年の大きさは計り知れない。その一年を、奪ってもいいのかという気持ちになる。確かにその後の人生を長い期間で見れば、この転換点を乗り越え人生を再構築する時間は彼・彼女らにもあるだろう。だが、例えば"最後の大会に出られなかった"という思いは、その後の人生に一つの欠落をもたらすに違いない。二度と帰って来ない時間の欠落として。それが例えば、今回の決定を下した公的権力への、あるいはその他の形での、歪んだルサンチマンとして彼・彼女らの人生の中に沈み込んでいったりはしないか。その点がとても気になる。

 もちろん、ここに書いてきたのは細かい状況分析や合理的判断を差し控えた至極情緒的で、感情的な語りだ。書きながら、でも「現状を冷静に考えるとこうするよなぁ」という点で、今叫ばれている入試中止や、部活動の自粛等の措置は全面的に間違いだとも思えない。状況を分析し、考えればこの文章とは別の帰結に自分も辿り着くと思う。ただせめて、これは上述したようなひどく情緒的な理由からだが、生徒達の自主性による部活動は解禁してあげたらどうか。如何な問題があったとはいえ、人生の一部、それも二度とやり直すことができない高校生活の一年を奪うという罰は、連帯責任という形で負わせるにはあまりに重すぎる。大人の一年であれば、まだ多少なりともやり直しは効くだろうけれど。

 そして最後に、これはここでは軽く触れるだけにとどめるが、仮に体制改革や罰則強化、監視等で体罰が目に見えてなくなったとしても、それだけではこの問題は終わらないだろうことにも留意しておきたい。今回問題となったのは表面化して目に見えた体罰であるが、真に問題なのは体罰という形で暴力が噴出せざるを得なかった人間関係・精神構造の方にある。それは例えば先生もOBも保護者も「強くなるために体罰を容認する」といったような体質の問題とはまた違った、関係性であり集団としての精神構造の問題だ。そちらを変えなければ、どんなに物理的な体制や規則が変わっても、結局体罰に代わる"暴力的な何か"が、また違った形で、より見えにくい形で、現れてくるだけだと思う。それに関しては、またいつか。

 願わくば、桜宮高校の在校生達の失われる時間と人生が、できるだけ小さくすみますよう・・・。

Comment on "桜宮高校処遇に思う"

"桜宮高校処遇に思う"へのコメントはまだありません。