2011年04月10日(日曜日)

選挙戦について思う

 今回の選挙で開票が始まった頃、Twitterで@hitononaka氏が以下のようなツイートをしていたのが目に止まった。

60代以上は戦後の復興を体験してるし、50代は復興を発展させた。つまり「俺たちが日本を作った」という気概があるから選挙に行く。40代以下は、最初から全て与えられているので気概がない。だから選挙に行かないし考えない。あっても「危機感」の方。これは社会構築課程上の問題なんですよ。

 今回の震災では「今日と同じ明日がいつものようにまたやってくる」という閉塞感が打ち砕かれたと以前に書いた。今日と同じ明日はもうやって来ないかもしれないし、今日と同じ明日ではまだこの世界に不安や不幸はたくさんある。それらは決して無くなりはしないだろうけど、それらを減らして安心や幸福を少しでも増やせる世界にしていかなければならない。それが変革ということなのだろうし、直接的には復興ということなのだろう。そのためには、我々若年層も「これからの日本を支え、築くんだ」という気概を持たないといけない。その意味で、まずは選挙に対する意識を高めることは必須だと思う。そして、選挙に行くために常日頃から政治の世界にも気を配ることも。

 それとは別の議論として、現状の日本での間接民主制における情報後悔とその共有システムについてもTwitter上で話をした。こちらは@hsuenobu氏と。今の日本では現実的に直接民主制は取れないので、間接民主制の体裁を取っている。だが、その前提としては民の代表たる議員を選ぶ際に、我々が正しく選択を行うための情報があることが必要となる。理想を言えば選択のために必要な情報が透明に平等に用意され、情報の偏差がない状態を前提とする。ところが現状では地元候補者に投票する際でさえ、誰がどんな考えを持って何を言っているのかは余程意識的に情報を集めないとわからない。それも日本ではネットでの選挙活動が解禁されていないから、市報やらたまたま巡り合わせた街頭演説やら、たまたまニュースや新聞で見かけた過去の活動から判断するしかない。選挙カーなんて名前を連呼するだけでまともな判断材料なんてくれやしない。そんな偶然性に大きく左右される情報偏差が多い状態で、間接民主制の真意たる正しい選択ができるのだろうか。この状態で、我々は情報を基に自分の意思で自分の代理人を選任していると言えるのだろうか。もちろんまずは選挙には行くというのが大前提ではあるが、選挙に行ったとして我々は真に自分の意思で選択していると言えるのか、という問題がそこにはある。本当に判断するための情報がまず揃わないのだから。この点を改善しないことには、間接民主制は意味を成さない。

 そのためにやるべきことは色々あるけど、まずはネットでの選挙活動の解禁は最低限やらないといけないのではないか。それによって平日仕事している時間内に行われる選挙演説や情報量の少ない公の上の広報と比べると、格段に情報の手に入れやすさが容易になる。ネットは拡散性と伝染性(こちらが問題だ)が非常に強いのでそれによる別の弊害は考える必要はあるが、情報のオンデマンドな入手が可能になる点と、やりようによっては双方向な情報のやり取りが可能になる点は大きい。政治家の方々としてはネット活動の解禁によってこれまでの活動手法が通じなくなり、何が起きるのかわからないので恐ろしい、という面があるのだろうが、我々が受けるメリットは大きい。

 もちろんそれだけで情報偏差がなくなるわけではないし、選挙戦だけではなく通常の国家運営についても情報の透明性は確保される必要があるので、課題は山積している。今回は震災直後の選挙戦ということで思うところは多かったが、国にも、民にも改善すべき点はたくさんあるという曖昧な結論を出し、そろそろ眠りに就くことにする。

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