2010年08月29日(日曜日)

渋谷について

 少し、渋谷について書こう。この街で社会人として約9年を過ごした。その間の仕事に費やした時間を考えると、おそらくは自宅があった日吉より長い時間をこの街で過ごした。その渋谷についても何らかの形で書こうという思いはずっとあったのだが、結局これもまた渋谷を出てから書くことになった。離れて約半年。まだ記憶は風化せず、少し距離を置いた今はもしかしたら適当なタイミングではあるのかもしれない。

 渋谷は私にとって東京・横浜圏内では特別な街だ。約9年の東京・横浜の生活の中で、仕事でもプライベートでもたくさんの場所に行ったが、その街について書こうと思うのはやはりまずこの渋谷になる。他には汐留だろうか。新宿は、書きたい気もするのだがあの街のイメージがもう一つ自分の中でまとまらない。横浜やみなとみらいは独身時代はたまに仕事で行く程度で、結婚してからようやくちょこちょこ行くようになったくらいなのでなかなか語れるだけの下地がない。渋谷と同じく約9年、住居を構えた日吉はどうだろう?ここも案外、難しい。その点、渋谷と汐留は特別な街だ。その中で、今回は渋谷について書く。

 渋谷は欲望の町であると、就職活動の頃から渋谷に勤めるようになって数年経つ頃まで、私はそう言っていた。当時は、ただ単に若者が集う都会の面白半分なイメージとしてそう言っていた。けれども時が経つにつれ、その「欲望の町」というイメージは少し違うのではないかと感じ始めた。確かに渋谷という街には欲望は渦巻いている。望めばあらゆる店やサービスがそこにはあり、いつも若者が道一杯に肩がぶつかりそうなくらいへし合いながら歩いている。買い物をすることも、ゲームやカラオケで遊ぶことも、おいしいものを食べることも楽しいイベントもたくさんある。芸術や文化に触れることもできるし、風俗だってもちろんある。仕事帰りに朝5時まで飲みながらダーツを投げたって、それで遊び足りなければそこから24時間営業のカラオケにだって行けるし、ラーメンを食べることだってできる。始発が出る頃の渋谷には、新潟なら日中の新潟駅前等の中心地でしか集まらないような人混みが毎日朝4時半や5時の時間にできる。24時間365日、渋谷という街は休むことを知らない。そんな直接的な欲望を吸収し、消化する側面を確かに渋谷は持っているし、それが大きな機能の一つだ。しかし、渋谷という街の本質はそこにはないのではないのかと、いつ頃からか感じ始めた。渋谷に渦巻く雑多な欲望は、あくまで目に見える表層に過ぎないのではないか。そう思い始めた頃から、私は渋谷の表現を変えた。渋谷は、成熟しないものの街である、と。あるいは、成長途上のものの街である、と。

 渋谷は若者の街だ。街を歩いていると、本当にそう感じる。直接的に道を歩いている人はほとんどが10代〜20代に見える。まだ、精神的な面で成長しきっているとはいいにくい世代だ(では何歳になったら成熟するのか、という点はさておいて)。渋谷という街は改めて見ると人も企業も、あるいは文化や空気も、そういった匂いがする。未成熟、あるいは成長途上の匂いだ。歩いている人もそうだが、渋谷に本拠を置く会社を見てみてもそのような感じがする。かつて日本が第一次ITバブルに沸いた2000年前後、渋谷には進取の気性を持った若いIT企業が跋扈し、アメリカのシリコンバレーをもじってビットバレーと呼ばれた。当時勢いがあった会社の多くは今では失速してしまったか、最悪消滅してしまっているが、企業文化を見ても渋谷にはそういった新しい若い情熱を持った企業が多く集中する傾向がある。そして人も、渋谷に普段からいる人達は直接的に年齢が若いか、あるいは実年齢はそこそこいっていても精神的に未成熟、あるいは成長途上の若さを持った人達が多いように感じる。それは、おそらく私も含めて。たまに成熟した文化が渋谷に現れても、それは渋谷で熟成・洗練されたものではなく、外部で熟成されたものを渋谷の若いエネルギーが利用するために輸入したような形を取るこ。このように、渋谷という街はその成長過程のありあまるエネルギーを引き付け、溜め込み、消費する街なのではないだろうか。

 だからだろうか、この街では成熟しきったもの、あるいは成長しきったもの、あるいはただ単にその若さゆえのエネルギーに耐えられなくなったものは外に出ていく。音楽のデジタル配信が普及する中、HMV渋谷がこの8月で閉店したのはその意味で象徴的な出来事のように思う。渋谷発の企業も、事業として落ち着きを見せたものは外に拠点を移す場合が何故か多い。結果、渋谷にはいつも若い世代、若い精神を持った空気が溢れ、そのエネルギーで欲望が生み出され、蓄積され、消化されていく。ピーターパンのネバーランドでは、大人になった人間は外部に出され、そこは子供だけが存在する子供の国になるという。ピーターパンが大人を殺してしまうので子供だけが残るという解釈もあるらしい。渋谷をその永遠の子供の国、ネバーランドに例えるのは無理があるだろうか?成長しきったもの、老いが見えるものは排斥され、常に若さという強烈なエネルギーと、未成熟であるが故の弱さ、脆さを併せ持つものだけが残る渋谷という街は、現代日本のネバーランドであるように思えてならない。

 私は、渋谷でたくさんの時を過ごした。様々な渋谷を見て歩いて体験してきた。それでも今、渋谷が好きかと聞かれると即答は難しい。嫌いではないのだと思う。では、好きかと言われるとどうだろう。なかなかその点では言葉に詰まるものがある。何はともあれ、結果として私は渋谷を離れた。これは、私が成熟したということなのだろうか。それともただ単に若さゆえの強烈なエネルギーに疲弊しただけなのだろうか。私は、渋谷を出て行ったのだろうか。あるいは、渋谷に排出されたのだろうか。渋谷は、これからも若者のための、未成熟なもの、成長途上のもののためのネバーランドであり続けるだろう。それは少なくともしばらくの間は。対して、やはり私は年をとっていくだろう。厳然たる事実として、人は、老いて、死ぬ。私にとって渋谷という街への思いは、少しずつ永遠の若さへの憧憬のような感覚に変わっていくのかもしれない。それは、少しずつ遠くなっていく。純粋な懐かしさとは違って。

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