2009年10月13日(火曜日)
正しさのゆらぎ
正しさを唯一の依り代とすることは、実はとても脆く危うい。一見強固に見える"正しさ"という信念は、実はその見た目よりもさらに強固な前提を必要とする。平たく言うと、立場が違えば、見る角度が違えば、それだけで"正しさ"は変わる。一つの平面における正しさは、別の地平から見た大きな間違いともなる。仮に真実は一つとしたとして、その一つの真実に対する正義は無数にありえる。そして残念ながらこの世界では、真実ですら一つであるとは保証はされない。私が見ている白くて円いものと、あなたが見ている白くて円いもの。それが同じものであると、同じように見えていると、誰が証明できる?
客観は存在するか? 世界は主観と主観の狭間にある間主観としてしか存在しえないのではないか? 答えはまだ出ていない。いつか、出るのだろうか。
その答えとして、完全な客観が、完全な客観的真実の存在が保証されたなら、まだ"正しさ"を絶対の依り代にできる可能性がほんの少しはあるのかもしれない。それはおそらく、実現可能性とは言えないほどにほんの少し。
"正しさ"を求めることが間違っていると言っているのではない。"正しさ"を絶対的な依り代とすることは危ないと言っている。他人にとっても、自分にとっても。真実が一つと仮定したとしてもその一つの真実に対して無数に存在しえる正しさという指標は、本来ならしがみつくことも難しいほどの大きな大きな揺らぎがある。その揺らぎを認識した上で、自分の立地を確認した上で、その上での道標として”正しさ”に頼るのはまだいいだろう。自分が立っている地平以外にも立場はあり、そのそれぞれに"正しさ"があることを忘れなければ。
"正しさ"という道標は強力で、それ故逆に安易でもありえるし、脆く危険でもある。忘れないことだ。自分が立っている地平以外にも、この世界には地平は無数に存在する。その地平の違いを忘れることなくいられるかどうかが、大袈裟に言えば理解への第一歩だ。そしてその地平の違いを忘れてしまうことを、養老孟司は"バカの壁"と呼んだ。この言葉は自らが定義した"バカの壁"に阻まれ、意外と、理解はされてはいないようだけれど。
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