2007年08月18日(土曜日)
新潟の夏
新潟は夏が好きだ。冬の雪や、降る前のピンと張りつめた緊張感のある澄んだ空気も好きだけれど、一番好きな季節を挙げろと言われるとやはり夏になる。
よく勘違いされるところだが、新潟の夏は別に涼しくない。湿度も高いし、日本海側に台風が来ればフェーン現象で40度近い気温をマークすることすらある。そうでなくとも30度を超えることが珍しい北海道とは違い、8月ともなれば平常的に30度くらいは超える。他の県より1度くらいは低いかもしれないが、別に涼しくはない。夏らしく暑い。それが新潟の夏だ。その、夏らしい新潟の夏が好きだ。
私の実家は越後平野のど真ん中、信濃川と中之口川という二本の川に挟まれたところにある。山がなければ水田の果てに地平線が見えるであろう広大な米作地域だ。その中で真夏の照りつける太陽の下、片道10km以上の道のりを両サイドが水田、街灯もないような細い農道を毎日自転車で通っていた。それが私の夏の原風景だ。だから、私にとっての夏は海ではない。山でもない。延々と続く平野に広がる水田と、そこで軽く会釈する程度に穂を垂れる、まだ緑の米の稲穂と、その稲穂や茎を輝かせ、葉を白く透き通らせる太陽が夏だ。信濃川や中之口川を吹き抜ける風と、光に乱反射する水面が夏だ。それらは今も夏に帰省すると、当時と何ら変わることなく、美しく躍動感溢れるその姿を見せてくれる。
新潟の夏は美しい。どこまでも続く平野と水田に稲穂、ゆったりと輝きながら流れる信濃川に中之口川、そしてそれらを新鮮に輝かせる太陽。それらが織りなす水と緑の供宴が美しい。東京や横浜、あるいは京都でも、このような夏の美しさはない。新潟の平野の夏は独特だ。
高校の通学路は家路に着こうとすると校舎を出てすぐに橋を渡ることになる。どの橋を渡るかはいくつか選択肢があるのだが、普段は当時あったマルヨシに近い橋を渡って通学していた。その橋の上から見える夏の川の景色が好きで、毎年夏の間はその景色を楽しみにしていた。今でも覚えている。ある日いつものようにその橋に自転車で差しかかった際、そこから見える夕陽と、それに映し出される水面に垂れ込めるような木々と静かに流れる川の景色が、あまりに美しくて橋の上で自転車を止めた。そして光が陰るまで、ずっとその場で景色を見ていた。夏の日の夕陽が輝くのは一瞬だ。ふと見ると、それは既に残照に変わってしまっている。多分橋の上で立ち止まっていたのは、ほんの数分のことだったろう。夏の輝きが一瞬の侘びしさを連れて夕闇に変わっていくその風景は、今でも夏の原風景の一つとして心に残っている。
これから先、どこに行くのか、何をやるのか、結局確かなことは何もわからない。意図した通りに人生がいくとも限らない、いかないとも限らない。ただ、どのようになっても、この新潟の夏の風景は忘れたくないし、できることなら、守りたいと思う。そこは、自分の立つ心の足場の一つなのだから。
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どーも。
余談だが、その橋は、今ないよ。
両岸のカサ上げに合わせてリフトするだけか、イチから架けなおすのだかは忘れたが。
まあ、実際に見たかもしれませんが、この1年であの川周辺の風景は完全に変わりました。
あとスパムTBに押されて、Recentからは早くも撤退してますが、今日、森見登美彦の記事にTB送ったので、まあ、ヒマがあったら、よろしく(作品についての言及は、ほとんどありませんが・・・)