2006年07月28日(金曜日)
疲れた時は
- ayum
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また、仕事が忙しい。いつものことと言えばいつものことだが、今回はなかなか、かつてない程プレッシャーが厳しい。折れそうになる心を引きずりながら、立て直そうとしながら、重い足を一歩一歩前に進める。そんな感じだ。ゆっくりする暇なんて結局ないんだなぁなどと思いながら、毎日日付が変わる帰宅を繰り返す。
疲れた時には、意外に歩くのが好きだ。もちろんスポーツなんかの筋肉的で直接的な疲労でなく、仕事なんかの体が逆に固まってしまうような疲れや精神的な疲れの場合、とりあえず当てもなくふらふらと歩くのが好きだ。仕事の気分転換にもふらりと外に出ることがあるし、家に帰るのを敢えて少し回り道をして帰ることもある。疲れた時には、歩くのがいい。それも無理してリフレッシュしようとか気張るのでなく、気が自然と晴れるなら晴れていくように、心が沈むのならそのまま沈ませておくように、何かをどうにかしようとするのでなく、ただ自然と心と体が赴く方向にまかせて歩いていくのが好きだ。
そういう時にはゆっくりと歩くのがいい。前へ足を運ぶというよりは、持ち上げた足が慣性で少し前へ進み、重力に任せてぼてっと落ちるように。無理して何かを見る必要もない。眼鏡もかけずに裸眼で道へ出て瞼の力を抜いて、きっと端から見たら眠そうに見えるのだろうとろんとした目で、誰に追い越されるのも気にせずに、ぼてっぼてっと歩いていくのがいい。気が晴れるのなら晴れるままに、気が沈むのなら沈むままに。
結局、今の世の中は目的があって、それを追いかけることを前提として成り立っている。ある点から別のある点への移動、運動、指向。ある点からある点への意識を持ち続けること、指向することこそがイコール今の世の中での有効な価値だ。だから、ともあれ人は何かを指向する。仕事もそうだし、私生活でもそうだろう。それは向上心と呼ばれたり、趣味嗜好と呼ばれたり、あるいはずばり生活そのものと呼ばれたりする。極論すれば指向性の持続こそが生きていくために必要な最たるもので、生きていくことそのものだ。
だから、たまには、疲れた時こそ、その何かを何かに持っていこうとする、どこかからどこからを見ようとする、そんな力の働きかけを放棄してもいいんじゃないかと思う。何かをどうこうしたくて歩くのでなく、どうにもしないようにと歩くのでもなく、できるだけ流れに任せて、何かを見ようとも見まいともせず、ただふらふらと、歩く。心に浮かぶ好嫌さまざまな断片を思い浮かぶままに受け入れて。何かをどうこうしようというのではないから、当然それで気が晴れるとも限らないし楽になるとも限らない。むしろかえって沈みこむこともある。でも、それでもこうした歩き方が疲れた時に好きなのは、やはりどこかに向かおう、何かをしようとする心の動きに疲れてしまって、そこを休めなければいけない時があるからなのだろう。ここで"こうしたことをすることは何かを指向し続けることに疲れた心にとって必要なのだ"というと、何も指向しないというこの行為自体が"心を休めるため"という指向性を持ってしまって、困った論理矛盾が発生してしまうのだが。
まぁ、そこは深く考えないことにするとしてとりあえず、疲れた時には当てもなく道を歩くことが好きだ。気が晴れるのなら晴れるままに、気が沈むのなら沈むままに。
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