2005年05月29日(日曜日)
Helloweenからバッハまで
- ayum
- 23:40
- コメントする
- トラックバック (1)
- カテゴリー:音楽
今日は日中少しばかり出社して資料作り。とはいっても日が落ちる前には帰宅するのだけれど、帰りの電車の中で夕陽の光を眺めながら、iPodで久しぶりにHelloweenの『Keeper of the Seven Keys, Pt. 2』を聴いた。やはりこの頃のHelloweenは最強にカッコいいと相変わらずたまに聴く度思うのだけれど、実は以前から少しばかり気になっていることがある。『Eagle Fly Free』、もの凄くカッコいい。カッコいいんだけど、・・・やっぱドラムとボーカルちょっとずれてんだよなー・・・。インゴがねー、この曲に限らず少し走っちゃう場面があるんだよねー・・・。『Rise and Fall』もテンポアップやアッチェランドを意識してやってたりもするけど、それ以上に走ってる部分が・・・。聴いてて気持ち悪いのです。気持ち悪いけど、気持ち悪いけど、でも何故かカッコいいのがこの頃のHelloween。得体の知れないパワーが満ちていて素敵です。
しかしエレキギターのバッキングって何というか、非常にリズム感が悪いというかグルーヴ感が悪い。これはある程度仕方のないことで、エレキで音を歪ませるディストーションやアンプのゲインは結局のところ音のエッジを潰しているから、どうしてもアコースティックや同じエレキでもクリーン系のサウンドに比べると音と音の境目が不明瞭になる(クリーン系のサウンドでもコーラスとかを深くかけるとやはり音のエッジは不明瞭になる)。元々ある音が真剣の刃だとしたら、ロック系全般のザクザクしたサウンドは刃を敢えて刃こぼれさせたりのこぎりみたいにしたりして叩き斬ってるのと同じことで、そりゃ痛いかもしれないが切れ味は悪い。そんなんで音と音の境目、あるいは音と無音の境目がぼかされてしまうと、やはりリズムというのは活きてこない。エレキのギタリストの中にジャンゴ・ラインハルトやバーデンパウエルのようにただコードを弾いているだけでカッコいいというプレイヤーが出てこないのには、そういった物理的なハンデもあるのだろう。想像してみると、『花祭り』をディストーションを思い切り効かせたエレキで弾いてもカッコ悪い。ただし、元ブルーハーツの真島昌利だけはただコードを弾いているだけでカッコいい(爆)。
昔から言っていることだが、音楽はダイナミズムだ。小さい音と大きい音、高い音と低い音、固い音と柔らかい音、音と無音、その他色々な相対要素が絡み合って音楽の感情が生まれる。イコールそのあらゆる面におけるダイナミズムの総和が表現力の可能性の外縁になる。その意味でディストーションをかけたエレキギターは音と音の間のダイナミズム、音と無音のダイナミズム、あるいは音量のダイナミズムに始めから物理的な制限が課せられている点で大きなハンデキャップを負っているとも言える。ふと思うと、エレキのプレイで「これは凄いグルーヴ感だ」と感心するのは大抵ディストーションの影響をほとんど受けない単音のリフやソロだ。マイケル・シェンカーの『Feels Like a Good Thing』や『Into the Arena』、Blackmore's Nightの『Play Minstrel Play』など、すべて単音か、そもそもエレアコだ。大体エレキでグルーヴ感が凄いという褒め言葉自体確かにあまり聞かない。それよりはやはり長いサステインを活かした泣きのフレーズの方が主流だ。こちらは名演の列挙に暇がない。のでわざわざ挙げない。
音と音、ないしは音と無音のダイナミズムを一番意識してした演奏家は、クラシックの世界では間違いなくグレン・グールドだろう。彼のスタッカート奏法は音を切っていたのではなく、リズムを切っていたというのが私の見解だ。実際、彼はただ闇雲にスタッカートを駆使していたわけではない(当然だが)。旋律の中で音の粒を際立たせるためのこともあれば、あるフレーズから次のフレーズ、あるリズムから次のリズムへ移る際の布石、フレージングとして使うことも、上下で同時に走る対位法の旋律を混じり合わないように分けるために使うこともあった。総じて、彼の演奏は対位法を切り出して一つ一つの旋律に注意を向けてみると旋律が旋律であると同時に一つのリズムセクションであるように思えてくる。旋律がリズムを踊るのである。グールドの演奏はそのように聴こえる。
バッハの曲、特にその対位法の妙技が冴える曲を演奏するときは、「旋律が複数走る」ことにばかり演奏する方も聴く方も注意が向きがちになる。だが、対位法は確かに低音も高らかと旋律を歌ったりするが、そこからリズムが消えるわけではない。裏を返せば、対位法では高音もリズムパートとなりえる。それはつまり、旋律が自身のリズムさえも支えなければならないということを意味する。そこに気付かず、ただ複数の旋律が歌っているだけの対位法の演奏は文字通り音楽として死んでいる。旋律という音楽の美しい肢体は、リズムという血が通って初めて躍動する。基本的にこの原則に例外はない。だが、それを意識できている演奏家がどのくらいいるだろうか。
夕暮れの電車の中、HelloweenをiPodで聴きながら、何となしに延々とそんなことを考えていた。
Trackback on "Helloweenからバッハまで"
以下1件のトラックバックはこのページのエントリー"Helloweenからバッハまで"を参照しています。
このエントリーのトラックバックURL:
"Helloweenからバッハまで"へのコメントはまだありません。