2005年04月17日(日曜日)

映画『トニー滝谷』を観て

 ちょうど一週間前のことになる。福岡の小さな単館系の映画館で『トニー滝谷』を観た。村上春樹原作で短編集『レキシントンの幽霊』中に収められている、村上春樹らしい欠落と喪失の物語。湿っぽくなりすぎない乾いた孤独感が作品を通して流れる、静かな、短編としてもあまりに静かな物語。

 少し肌寒い春の小雨の中、傘をさして映画館の前まで辿り着くと、地下に続く小さなライブハウスのような暗い照明の階段の入り口の前には意外や行列ができあがっていた。どうやら主演のイッセー尾形が舞台挨拶をする公演にまんまとぶち当ってしまったらしい。それでもせっかく来たのだからと、整理券を手にして湿っぽい階段で会場を待つ。70人がやっと入れるくらいの小さな箱。イッセー尾形がどんな舞台挨拶をしたのか、実はよく覚えていないのだけど、村上春樹は長編小説の映画化には絶対首を縦に振らないが、短編小説はその限りではないということでこの映画化が実現したという話だけはよく覚えている。立命館の学生会館小ホールよりまだ狭いくらいの距離の近い空間。幕の閉じたスクリーンの前に立つイッセー尾形は、舞台挨拶という場面になれていなくて空気がつかめず戸惑っているような印象も受けた。

 この『トニー滝谷』という映画は台詞やアクションを主体として進んで行く一般的な映画やドラマとは違い、ナレーションとモノローグ、そして場面転換で話が進んで行く。この映画において、空間は移動するものではなく切り替わるものとして扱われているようだ。そう、まるで舞台演劇のように。実際そのようにしてほとんどのシーンがステージ上で撮影されたらしい。そしてその切り取られた空間の中では会話すらほとんどなく、基本的にナレーションとモノローグだけで構成されていく。だからただでさえ静かな話が余計に静かに演出される。映画を観ているというより写真を眺めているような感覚。動きはあるのだけど静止した世界。カラーの映画なのにモノクロな詩情を感じさせるその絵は、村上春樹らしい現実感と浮遊感の狭間をよく表していたように思う。静かで、乾いた、モノクロの情感と孤独。坂本龍一の音楽が、さらに空間を透明で、隙間のあいた感覚にさせてくれる。映画館に足を踏み入れるまで傘越しに打たれていた少し肌寒い春の小雨が、この映画にはこの上なくマッチしていたように思う。映画の最後、トニー滝谷は電話をかける。それは原作にはなく、監督が村上春樹と相談の上で新たに付け加えた場面らしい。誰かに向かい、鳴り続け、おかれる電話。『ノルウェイの森』のラストを思い出した。

 改めて『トニー滝谷』の原作を読み返そうと思って『レキシントンの幽霊』を探したけれど、何故だかどうしても見つからない。誰かに貸したままになっているのか、実家にでも送ってしまったのか。とりあえず文庫も今は出ていることだし、明日にでも買ってもう一度読み返してみたいと思っている。

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