2005年03月20日(日曜日)

時間が過ぎ去る現代

 時間、特に未来という概念はある程度進んだ文明に固有の概念らしい。その説を本で読んだとき、非常に意外な気がしたのと同時に、妙に納得もできた。なるほどなと。

 現在でも、一部の未開文明では言語自体に未来を意味する言葉がないし、明確な時間基準というものもなかったりする。そういったところでは、時間を表すのに「牛舎から家畜囲いへ牛を連れ出す時間」や「山羊や羊の搾乳の時間」といったような言葉を使う。「○○時に牛舎から家畜囲いへ牛を連れ出す」のではなく、「牛舎から家畜囲いへ牛を連れ出す時間」なのだ。日常の具体的な習慣に基づいた、具象的で汎用性に欠ける時間表減。抽象的な目盛りとしての時間はそこにはない。そもそもは、それで充分だった。人間が一つの小さな集落の中で、牧畜なり農耕なり狩猟なりのみを生業にして、他の部族との交流すらほとんどなく一つの小さな世界の中で全てが完結している原初の文明では「牛舎から家畜囲いへ牛を連れ出す時間」という言葉だけで用をなせたわけだ。それが他の部族と交流を持つようになってきて世界が広がってくると、例えば待ち合わせの時間を決めるのに「牛舎から家畜囲いへ牛を連れ出す時間」ではお互い通用しなくなってくる。片方の部族が「牛舎から家畜囲いへ牛を連れ出す時間」は、もう片方の部族にとって「鶏小屋を掃除している時間」かもしれない。そこで初めて汎用的に使える、抽象的な「時間」という概念が必要になってくる。そのようにして「時間」は生まれた。つまり、「時間」は元々文明の規模的発展が生んだ差異、多様性の中で必要とされて生まれてきたものなのだ。

 それだけなら別に悪いことのようには思えない。「時間」という目盛りが増えただけのこと。けれど話は実はそう単純ではなかった。抽象化された時間は、二義的に個と土着の文明との乖離を助長する。「牛舎から家畜囲いへ牛を連れ出す時間」だけで済んでいたうちは、日々はただ繰り返されるものであり、農耕のスパンである一年以上の未来を気にすることも表現することもなく、人と暮らしと土地は非常に密接な関係で結びついていた。個と社会、文明が完全に固定された世界ができあがっていた。自然も人も毎日も、すべて繰り返しの中にいるなら個が浮くことはない。アイデンティティの喪失など問題になることもない。ところが文明が広がり、多様性が生まれ、差異が拡大してくると、時間はただ繰り返すものではなく、流れていくものに変わっていく。流れ、過ぎ去っていくもの。それは実は記録可能な目盛りとしての役割を果たす抽象的な時間という概念と、流れを生み出すほどの文明的多様性の存在によって初めて生まれる概念だ。繰り返し、過去が蓄積する、あるいは過去が再生すると考えられていた時間から、流れ、過ぎ去っていく時間へ。文明の広がりが見せた多様性は、そうした悲劇的な時間感覚を生み、密だった文明から切り離された個はアイデンティティを小さな個自身の中に求めていかなくてはならなくなる。それはよかったのか悪かったのか。

 すべてが繰り返すのなら、未来を見通す必要などなかった。「このままでいる」からだ。10年後も、50年後も。自分が死んでも、また次の世代が同じことを繰り返すだろう。ところが抽象的な時間を必要とするまでに発展した文明は、同時に未来も必要とした。もう時間は繰り返さないし再生しないからだ。多様性と差異の荒海で、10年後どころか5年後も確実なものは何もわからないようになった。不確かな未来は、個のアイデンティティの基盤を脆くしていく。流れ、過ぎ去る時間は何も残していってくれはしない。だから未来を見なければいけなくなる。未来はある種、現在や過去から切り離された足場の弱い個が夢見なければならない幻想として始まった。

 矛盾した言い方ではあるけれど、時間が流れ始めてからもう随分と時間が経っている。進む多様化は、さらに個を社会から切り離すし、過ぎ去っていく時間はいよいよもって何も残してもくれないし持っていってもくれない。多様化が進めば進むほど時の流れは速くなっていき、個は未来が見えにくくなる。そしてそうなればそうなるほど、過去が繰り返し再生することは多様化にかき消されてなくなっていき、より一層時間は何も残さず流れるようになる。消えていく過去にはすがれないから、結局未来を夢見るしかないけれど、その未来はもう見えない。時の流れの悪循環。抽象的な時間がただ流れていくだけの世界。現代ではもう個はボロボロになって悲鳴を上げているようにも思える。

 果たして暮らしに根付いた具象的な時間を取り戻すことは可能なのだろうか。

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