2004年11月07日(日曜日)
デビッド・ラッセル - 輪廻のパッサカリア
Amazonで注文していたデビッド・ラッセルの『Passacaille』が今日届きました。何故かCDのタイトルがAmazonの目録と一致してませんが気にしちゃ負けです。先月10/10にラッセルのコンサートに行った際、後半ののっけから聴衆を引っ張り込んでくれたヘンデルの『組曲七番』を全曲収録し、他の曲目もバッハにスカルラッティと、ラッセルの魅力が十二分に堪能できそうな期待の持てる一枚です。昼食後に帰宅したら郵便受けに入っていたそのCDを、今日は何度も聴いていました。
まずはこれまで語る機会をなくしてしまっていた、先月10日トッパンホールでのラッセルのコンサートから始めましょう。意外かもしれませんし知ってる人も少ないでしょうが私は学生時代から(例えばまんごれとかに訊かれた際に)「一番の目標はラッセルだ」と密かに公言していました。大学四回の時にラッセルが来日した際は諸々の都合が折り合わずに行くことができず、「次に来たときは絶対行ってやる」と燃えていたわけです。当然当日も問答無用で仕事を切り上げ、普段絶対電源を切らない社用の携帯電話の電源を速攻落とし会場に向かいました。
いきなりテデスコの『悪魔の奇想曲』から始まる強烈な曲目のコンサート。最初に思ったのは「もの凄く和音がきれいに響くなー」ということでした。入りに流してくるコードから、いきなり会場の空気をわしづかみにするくらい堂々と響くのです。ラッセル特有のあの暖かさと透明感を兼ね備えたあの音色で。テデスコの曲はこの『悪魔の奇想曲』もそうですし『ソナタ-ボッケリーニ讃』もそうですが、緊張感溢れる和音の高速移動が曲の最大の盛り上げどころであり、最大の難所でもあります。その高速で連打される和音がまた素晴らしく一つ一つきれいに鳴ってるんです。しかもまたその和音の中に決して旋律が埋もれない。ラッセルは音の分離にかけてはあらゆるギタリストの中でも屈指のセンスを持っているとCDを聴きながら感じていましたが、改めて生で聴くとやはり凄いです。この一曲目ではまだ手が温まっていないのか、『悪魔の奇想曲』必殺の高音から一気に駆け下りてまた戻ってを繰り返す連続スケール&アルペジオはかなりきつそうでしたが(苦笑)、肝心要の和音の高速連打を素晴らしいテンションで弾ききってくれたおかげでのっけからこの名曲を堪能させていただきました。
続く『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』と『主よ人の望みの喜びよ』は割に力を抜いた感じの演奏で、『目覚めよ〜』に非常に大きな期待をかけていた私は少し肩すかしを食ってしまうわけですが。まぁしかしそれ以上に許せないのがマナーの非常に悪い客達で、この二曲の演奏中はデカイ音で携帯は鳴るは後ろじゃずっとなんかガサガサガサガサ音立ててるバカはいるは、アンタら一体何しにこの会場に来てるんだと軽く小一時間説教くれたい気分で一杯でした。せっかくのコンサートなんだからよー。
ともあれ続くマンホンの『バスクの調べ』は素晴らしい演奏でした。前半のMVPです。私もあまり聞いたことのない作曲家の知らない曲でしたが、またこれがよかったのです。作曲者のマンホンはバリオスをも魅了する腕前を発揮したというスペインのギタリスト兼作曲家ですが、この『バスクの調べ』は『アラビア風奇想曲』のようなエキソチックな情緒が漂い、中間に複雑なリズムや様々な技巧を差し挟みながら展開していく名曲です。相当に技巧的な要素を含みながら、その技巧によって紡ぎだされるフレーズがまた美しいのです。ラッセルもまたこの曲では調子を上げてきて、持ち前の美音と表現力でこの難曲を見事に歌って聴かせてくれました。思わず休憩時間にこの曲の譜面を所望してしまいましたからね。いい曲です。まぁいざ帰りの電車の中で譜面を見てみたら一小節の中に11連譜と12連譜が共存するような極悪な曲だったわけですが(爆)。
そして後半の一曲目、ヘンデルの『組曲七番』より序曲、サラバンド、パッサカリアが弾かれます。これがねぇ、素晴らしかったんですよ。ヘンデルというと『水上の音楽』の『王宮の花火の音楽』のような明るく華やかなイメージがありますが、この曲はどちらかというとヴァイスやフローベルガーのような静謐な美しさを持つ曲で、序曲でのフーガ風の掛け合いや、重々しいというよりは敬虔な祈りの神々しさを思わせるサラバンドと、もの凄く印象に残るのです。またサラバンドでのラッセルの和音の音色がきれいなんですよ。透き通ってるんだけど刺のない、長期間樽の中で熟成された秘蔵のウィスキーのような音。どうやったらあんなにきれいな音が出せるんでしょうか。それも和音で。いつか自分でもと夢見てしまいます。
そして組曲最後のパッサカリアが始まります。これはもう最初の一小節で充分でした。それだけで完全に曲の世界に引き込まれてしまいました。曲自体素晴らしく美しいのはもちろんなのですが、それ以上に演奏しているラッセルからもの凄いオーラが出ていたのです。また曲自体パッサカリアとしてはテンポ設定が早く、しかも一回の変奏周期が短いせいで、もう次から次へ変奏が展開していき音が回っていきます。中盤以降どんどんスケールやアルペジオの音数が増えていく中、短い周期でパッサカリアの低音主題は執拗に繰り返され、まるでグルグル回る輪廻を早回しで体験しているような、そんな感じでした。実際、ラッセルを中心に螺旋状に空間が回転しているような、そんな印象さえ受けました。ゾクッとしましたね。この演奏はホントに心が震えました。この一曲を聴くためだけでも来る価値はあります。
そしてあれから約一ヶ月、改めてCDでこのヘンデルの組曲七番の『パッサカリア』を聴いてみます。コンサートの演奏よりもややテンポを落として弾いてますが、やはりいい曲です。パッサカリアはシャコンヌと同じように低音部に主題を持ち、低音で奏でられる主題旋律が一曲を通じてほとんど姿を変えずに執拗に繰り返され、その上で自由な変奏が繰り広げられる形式です。特にこのヘンデルの曲では短い周期で回る変奏が何度も何度も波のように押し寄せてくるのとは対照的に、低音主題は一曲を通じて姿を変えずにはっきりと繰り返されます。上の変奏がどれだけ変わっても、低音がまったく変わらずに響いてくるため、それが短い周期で何度も繰り返されるうちに、押し寄せてくるフレーズ自体に強い既視感を持つようになります。それが特にこのパッサカリアが輪廻を私に思い起こさせた所以でしょう。
一つの区切りが終わりまた次の区切りが来る。前の区切りの音がまだ頭から離れないうちに。そのようにして強く厚く積み上がっていくデジャヴュ。それは輪廻転生をも確かに想起させるし、また同時に我々の人生のメタファーのようにも思うのです。中学、高校、大学、社会・・・、舞台は色々変わっていきますが、それは所詮上の変奏部が変わったに過ぎず、結局低音部では同じ主題が何度も繰り返される。それは今挙げたような学校を軸とした区切りでなく、例えば友人関係だったりあるいは恋愛関係だったり、ないしはもっと他の何かかも知れませんが。人生の何かの折にふと、「ああ、そういえばこんなこと前もあったな、結局同じことを繰り返してるな」と思う瞬間があります。正直あまり出来のいい小説ではありませんが、『やがて消え行く幻達へ』はそのような感覚が元になってできたものです。私がこのパッサカリアやシャコンヌという執拗に繰り返される低音主題の形式を好み、惹かれるのは、その明確に繰り返される主題とその上に乗っている変奏が、そうした人生の中の輪廻のようなものを感じさせるからなのかもしれません。低音部の主題を自分の基本的な流れとして、その上に乗る変奏を環境等の変動要因と見るならば、変奏部分がいかに変容しようとも結局いつも同じことをやっているという、そんな運命論的な人生の悲哀がこの形式の中には潜んでいます。そこが、好きなのかもしれません。
CDで聴きなおすこの曲は、コンサートの時程の圧倒的なオーラこそないもののさすがに演奏自体は凄く安定していて、やはり同じ既視感を感じさせます。繰り返す運命論的悲哀としてのパッサカリア。ラッセルの透明だけれど冷たくはない音と、繊細な表現がここまでこの曲を強く心に残るものにしているのでしょう。CDでもここまで強烈なイメージを投げかけてくれる演奏というのはなかなかありません。コンサートからCDへ、それは心に響いていきます。
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