2004年09月14日(火曜日)
道徳の諸条件
あまり立て続けに重い話を書くつもりもなかったのだが、たまたま目についたので書くことにする。朝、通勤電車の中で読んでいた本の中で以下のような文章が出てきた。「どうして人を殺してはいけないのか」という問いに対するニーチェの答えという文脈だ。
この問いに不穏さを感じ取らずに、単純素朴に、そして理にのみ忠実に、答える方途を考えてみよう。相互性の原理に訴える途しかない。きみ自身やきみの愛する人が殺される場合を考えてみるべきだ。それが嫌なら、自分が殺す場合も同じではないか、と。
〜中略〜
二つの応答の可能性が考えられる。一つは「私には愛する人などいないし、自分自身もいつ死んでもかまわないと思っている」という応答である。この応答に強い説得力があるのは、自分がいつ死んでもよいと思っている者に対して、いかなる倫理も無力であることを、それが教えてくれるからである。何よりもまず自分の生を基本的に肯定していること、それがあらゆる倫理性の基盤であって、その逆ではない。それがニーチェの主張である。だから、子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体に覚え込ませることなのである。生を肯定できない者にとっては、あらゆる倫理は空しい。
「生を肯定できない者にとっては、あらゆる倫理は空しい」。今更のようだが、なるほどと納得した。増加傾向にある理不尽な殺人等のいわゆる凶悪犯罪の理由がわかった気がした。結局、今の生に可能性が見出せず、絶望の虚無の中にはまりこんでしまっているから、彼らの中に倫理や道徳といったものの根拠が存在しないわけだ。バブル崩壊以後ビッグなアメリカンドリームどころか、一生懸命勉強して一流大学に入って一流企業に就職して終身雇用で安定した一生をというジャパニーズドリームすら崩れてしまい、没個性の嘆きと相克するようにコマーシャリズムに乗った複製可能な個性が蔓延する昨今。大部分の大人には人生の希望なんてものは見つけることすら難しく、それを見る若者にはなおさらそれは難しく。浮遊する生は、意味や希望や可能性というものを失っている。村上龍は『希望の国のエクソダス』の中でこう言った。「この国にはすべてがある。ただ、希望だけがない」、と。言い得て妙である。希望をなくしたこの国は、同時に倫理の根拠をもなくしている。若年層に凶悪犯罪が増えるのも納得である。
朝からそんなことを考えていたら、奇しくも今日、付属池田小事件の犯人、宅間死刑囚の死刑が執行されたというニュースが入った。何の前触れもなく突然小学校に乱入し、児童8人を殺害、15人に重軽傷を負わせたこの事件を最初に知ったのは、平日は大抵そうなのだが、仕事中にインターネットニュースでだった。日本も酷いところになったもんだと、月並な感想を抱いた。日本は戦場じゃない。激しい民族や宗教の対立で日々死傷者が出ているわけでもない。言ってしまえば、"死"というもの、特に意図的な暴力による"死"というものから可能な限り無菌培養的に切り離された日常世界を構築しているのが日本という国だ。それを平和だと言うのならそうなのかもしれない。その平和を切り裂いたこの事件は、言うなれば"死"から切り離された日常という、この国の前提を覆すインパクトがあった。宅間死刑囚は裁判中も反省の色をまったく見せず、あまつさえ遺族への誹謗中傷すらしたという。そして今日、遺族が「せめて」と望んでいた謝罪の言葉さえも、彼は墓の中へ一緒に持っていってしまった。「どうせ死刑になるなら早く殺してくれ」と言い放ち、三ヶ月以内の執行を希望する宅間死刑囚。「自分がいつ死んでもよいと思っている者に対して、いかなる倫理も無力」だという事実を、嫌という程納得させてくれた。もしこの先もずっと、この国には希望がないとしたら、たとえ他のすべてがあったとしても、やはりこういった犯罪は増えていくのだろう。そしてそれが尚更、またこの国から希望を消していくのだ。
自分の生を肯定できない人間は、心の内に倫理や道徳の根拠を持たない。生を肯定できること、つまりは希望の復権ということが、そういう意味で大事なのだろう。なかなか、道は険しそうだ。
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