2004年05月16日(日曜日)
珈琲屋のマスターと仕事と生きがい
ウチの近く、いつも通勤で駅に行く道の途中には、紅茶の専門店のような店構えをした、でもマスター曰くコーヒー店の、でも最近売れてるのはひたすらハーブティーという(笑)、なかなか素敵な店がある。そこで買い物をするようになったのはつい最近のことなのだが、マスターはそこで買い物をする度にコーヒーを一杯出してイスを勧めてくれて、いつもそこから雑談タイムに突入する。当然お茶やハーブの話も面白いのだが、やけに色々な友人がいてむやみに博識なマスターは、日本とイギリスの最新の酪農事情やらアメリカ流・イギリス流の資産運用に仕事・生活スタイル、日本人とその他の外国人との間にある宗教というものの考え方のギャップ、等々とにかく色々なことに関して饒舌に語る語る。ハーブティーを1つ買うだけでコーヒーが出てきて、切り上げるタイミングをはかるのが難しいほど上機嫌に話し続ける。「最近の東京というか関東一円では何年も同じ分譲マンションに住んでたって隣の人と話すらしないからね」とはマスターの談。こういった触れ合いが好きで、また大切に思っている人なのだろう。
今日そのマスターと話していて、どういう流れか仕事の話になった。例えばマスターが私くらいの年齢のお客さんを捕まえて、「結婚はどうするの?」とか聞くと決まってこう答えが返ってくるという。「仕事が安定してから」とか「今の仕事が本当に合ってる仕事とは思えないし」とか。特に憧れの企業に入って、「ここが理想だ」と入る前に息巻いていた人は確実に「イメージと違う」とため息をつくそうだ。マスターはこう言った。「自分にあった仕事なんて絶対最初からなんてできませんよ。自分から仕事を自分に合うようにしていくか、でなければ自分を仕事に合わせないと」。金言だと思う。少なくとも新卒入社で社会に出て、「自分に本当に合った」仕事になどほとんど出くわせないだろう。何故ならそれは、社会に出たことのない人間の社会に対する認識は大体の場合において至極甘ったれた自分だけのご都合主義なものにすぎないからだ。そこから如何に自分の理想に職場を引っ張っていくか、あるいは職場の中から自分に合った部分を引っ張り出せるか、そういった世界の勝負になる。そもそも始めから理想が用意されていると考える時点で今の私の目から見ると現実の見えないただの甘ったれなのだが、かくいう私もやはり学生時代就職活動をしている時にはその甘ったれた考えを持っていたから、やはり社会というのは何はともあれ出てみないとわからないものなのだ。逆に出てみると、学生の頃は何故やるのか意味が分からなかった中学・高校の勉強や、今の仕事とは直接関係ない大学の授業でも、そこで学んだことの大切さや面白さがわかりはじめてくる。人とは現在形でやっていることのなんと見えないことか。
話はそれたが、結局この社会に出て仕事をやる際、理想が用意されていると思うのはそもそも甘い。自分に本当に合った仕事なんて、最初からあるわけがない。それは用意されるものではなく自分で作り上げるものだ。ある程度は環境の問題、ある程度は意識の問題。まずは現状の仕事の問題点を常に意識し、改善していこうと言う向上心、そして現状の職場の中から自分に合った部分を見つけて抽出していく適応能力。理想は、作り上げるものだ。ギャップはあって当然。それを埋めるのは会社側ではなく個人の問題だ。
ちなみにこれもマスターから聞いた話だが、30代半ばの日本人のお客が数人話をしているところに別の外国人のお客が来て、「生きがいは何か」という話になったそうだ。30代半ばの日本人のお客は「ん〜、まぁ、敢えて言うなら仕事かな」と答えたという。すると、外国人のお客がその答えを聞いて曰く、「そうですか、あなたは仕事のために生まれてきたのですか?」。強烈な考え方だ。マスター曰く、「何のための人生かっていう確固たる信念を持ってないと外国人の相手はできないよね」。さて、どう考えるべきか。
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