2003年10月23日(木曜日)
芸術性と大衆性
汝の行為と作品によって万人に喜ばれること能わず、
少数なるものを満足せしめよ
シラー『選択』より
・・・元々二行詩なので、上記に引用した二行目の後に一つのフレーズを入れてこの詩は終わります。「多くの者を喜ばすことは悪しきことなり」と、この詩は結ばれます。大衆の喝采と真の芸術は両立し得ないという、崇高な地平。確かに音楽でも何でも、より高度で複雑なレベルのものを理解するにはそれなりの資質なり訓練なりが必要だということは(以前にもこの日記で紹介しましたが)認知科学的にも証明されています。ということは、なるほど専門的な訓練を積んだわけでもない人間が大部分であろういわゆる大衆に理解できるものは「高度で複雑」なものではないということでしょう。「真の芸術」というものが「高度で複雑」でなければならないとするなら、「大衆の喝采と真の芸術は両立し得ない」というテーゼは科学的に証明されてしまうことになります。その論理を諸手を叩いて歓迎したい「崇高な」方々も世の中には多くいらっしゃることでしょうし、「理解されない芸術に意味はあるのか」と物申すか、あるいはそこまで理屈っぽくなくても一般受けも大事だと仰る方も相当数いらっしゃることでしょう。どちらを否定するわけでもありませんが、私はそしてこう言います。
まず、始めから大衆受けというものを狙って作るもの、それは確かに真の芸術たりえないでしょう。可能性はゼロではないですが、限りなくゼロに近いでしょう。ならば高度に専門的な訓練を積んだ識者達にしか理解し得ないような難解なものを作ることが真の芸術になりえるのかというと、それも当然そうとは限らないでしょう。確率的には前者より幾分はマシかもしれませんが。敢えて大衆を「人的」なもの、高度で崇高なものを「神的」なものと二極化して定義するとすると、その時点でどちらかの立場に立ったものはもう片方の立場を捨てることになります。それは等しく表現の帯域を狭めて限定することに他ならないのです。大衆受けを狙うなら高い認知能力を必要とするような技法は使えないし、それを悪とするならわかりやすいシンプルな手法を捨てることになります。「人」と「神」は絶対的な壁に隔てられることになるわけです。別にこだわる必要はないんじゃないかなと思います。「人」としての芸術にも「神」としての芸術にも。作品が求めるもの次第で、「人」にも「神」にもなれるし抗える(特に時間芸術においては一つの作品の中でそれが遷移することすらあり得る)、そんな柔軟さ、奔放さが真の芸術には必要なんじゃないかなと思うわけです。どちらかにこだわることはそれだけ可能性をせばめることになるわけですから。まぁ、ザックリ言うなら「受けるも受けねぇも気にすんな」ってことです(?)。
・・・しかし「人」と「神」の間を自由に行き来することが真の芸術への近道だとするなら、カルト宗教のトップとかが一番真の芸術に近い位置にいるということでしょうか。信者の前で「神」になり、「人」としての欲望も望むままにし・・・。う〜ん・・・(苦笑)。
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