2002年12月02日(月曜日)
力あれ、作品達よ
芸術には苦悩が付きまとうものだと、頑に信じて疑わない人がいる。極端に、苦悩の伴わないものは芸術ではないと言い切る人もいる。だが、それは果たして真実なのだろうか。私は疑問を覚える。
確かに偉大な芸術家は、音楽や絵画といったジャンルを問わず苦悩の中に作品を作り上げていった人が多い。音楽ならベートーベンがその代表格だろうし、絵画ならゴッホやムンクかもしれない。いや、数え上げていけば苦悩の中で優れた作品を残していった芸術家などいくらでもいて、むしろ苦悩の少ない人生を送っていた芸術家の方が例外的なのだろう。では、やはり苦悩が芸術の母なのだろうか。苦悩なき芸術に価値はないのだろうか。やはり私は、そのテーゼに意義を唱えたい。
苦悩の価値を否定するわけではない。ただ、苦悩そのものが芸術の価値であるはずもない。芸術から伝わってくるものは、ただそのエネルギーである。作品に注ぎ込まれたエネルギーである。そのエネルギーの発生源として、多くの芸術家が(望むと望まざるとに関わらず)利用してきたのが苦悩であるというだけのことだろう。確かに、苦悩は大きなエネルギーを生む。大きすぎて危険なくらいのエネルギーを生む。それを一人の人間の精神が抱えきれずに、自然発生的に外に溢れ出るエネルギーが多くの芸術の母となった。だが、逆説的に、発生源が苦悩でなかったとしても、それに劣らないだけのエネルギーを作品に注ぐことができる希有な人間がいたとしたら・・・?
大抵の音楽好きにとっては周知の事実のように、バッハの人生は音楽家としては平穏で、とてもベートーベンなどと比べることのできないくらい平安な日々を過ごしていた。だが、果たして彼の作品の内に込められたエネルギーがベートーベンのそれに劣るかというと、決してそうは思えない。中には、確かに平和ボケともとれなくもない曲もある。が、それはベートーベンとて愚にもつかない曲はある。それよりも『シャコンヌ』やBWV826の『シンフォニア』に見られるような、一見数学的で幾何学的な音の配置の構築美の中から、それでもなお奥深くから沸き上がってくる暗く激しい情動はどう説明するのか。一つの楽器だけで、大仰なオーケストラの圧倒的な力に頼ることなく、それでも暗闇に静かに燃える炎のように確かに息づく熱情を、我々はどう解釈すればいいのか。それらの曲を生み出したエネルギーの元が何だったのか。それは今となっては本当のところは知るよしもない。もしかしたらそれは苦悩だったのかもしれないし、もしかしたらそれは違う他の何かだったのかもしれない。だが、そんなことはもはや重要ではない。重要なのは、それが例え苦悩から生まれたものでなかったとしても、苦悩の表現媒体にはなりえるということだ。実際、これらの曲をそう解釈し、表現する演奏家は後を立たない。これらの曲は、苦悩さえも包容できるエネルギーを持っている。
勘違いしてもらいたくないのは、私はバッハをベートーベンと比べて優れていると言っているわけではなく、当然苦悩というものの価値(もっとも、苦悩している人間が自らその苦悩に価値などを見い出していればの話だが)を否定するわけでもない。ただ、苦悩というものがただそれだけで評価の基準となることに異を唱えたいだけなのだ。では、芸術というものの価値を決めるものは何か。何が評価の基準となるのか。
私は、それは説得力だと思う。その作品に触れた時、理屈抜きで心を動かす何か。それがすなわち作品の力だと思う。どんなに苦悩していても、触れるものの心を微塵も動かすことができない作品もあれば、気楽に作ったとしても触れたものの人生を変えてしまう程の衝撃を持つ作品だってありえる。もちろん、逆に気楽に作って何の感動もない作品も、苦悩に満ちた圧倒的な作品もあり得る。重要なのは、理屈抜きで、それがいかに人の心を動かすかだ。気を付けなければならない。ある作品を見る前に、その作品が作られた背景を知る。そのこと自体が既に、その作品に触れる際の色眼鏡になる。それがすなわち理屈になりえる。白紙で触れたとき、心に響く衝撃。それが芸術の力だと思う。そして、芸術の価値は触れる側の人間にとって、決して永久ではない。芸術に触れるということは、作品を通じて精神の深くまで入り込むということだ。当然、作品に触れた際の精神の状態が大きくそこには関わってくる。ある作品に触れた瞬間、そこに大した衝撃を感じ取れないなら、それ以上無理に深入りすることはない。それは、今の精神にとって価値のないものなのだ。もちろん、その「今の精神にとって価値のない」ということもまた永久ではありえず、別の瞬間にはこの上ない衝撃を受けるかもしれない。芸術は絶対的ではない。作品と受け手のインタラクティブな精神作用なのだから。作り手が苦悩により作品を作り上げても、受け手がそう取らなかったらそれは苦悩ではありえない。逆に、作り手にその意識がなくとも、受け手が苦悩と受け取ればそれは間違いなく純粋な苦悩となる。苦悩に限ったことではない。悲哀や、幸福や、諦観や、平穏も、その他あらゆるものが、作品の中に可能性として秘められてはいても、受け手なしで独立して在りえるわけではない。たとえ作り手がそれを望まなかったとしても。だから、作品にとって重要なのは何かを伝えることではない。受け手に気付かせるエネルギーなのだ。目を向けさせるエネルギーなのだ。それをどう取るかは、あくまで、常に受け手次第なのだ。いかに多くの人に作品に内在する可能性に気付かせることができるか。それが芸術の持つ力だと思う。そして、可能性の広さや深さは、あくまで受け手次第なのだ。たとえ作品自体の可能性に限界が始めからあったと仮定しても。苦悩はエネルギーに転換しやすい。だが、苦悩でなくともいい。力あれ、作品達よ。
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