2001年05月16日(水曜日)
"悲しみ"という言葉
"悲しみ"という言葉がある。それをどう定義すればいい?
"悲しみ"という言葉には、あるいはその他のほとんどの言葉、
特に人間の心の動きを表す言葉には、定義というものは無意味に近い。
"悲しみ"という言葉が、一体どれほどのものを表せるだろう?
"悲しみ"という言葉に含まれた内容の多さ、
"悲しみ"という言葉の持つ許容量の大きさは、
同時に"悲しみ"という言葉の決定力を消失させる。
"悲しみ"という言葉は結論にはなり得ない。
その言葉に辿り着くまでの選択肢の数だけ、
その言葉の意味は多様化する。
それは量子論のパラレルワールドにも似ている。
一旦分岐した言葉の意味は、決して重なりあうことがない。
それはよりどころになるのだろうか?
"悲しみ"という言葉にすがることで、
その悲しみを理解しようとすることから逃げてはいないか?
"悲しみ"という言葉が含有した多数の可能性は、
時に一番触れたくない真実に対するめくらましになる
僕にはわからない
この言葉を、これらの言葉をどう用いたらよいのだろう
また饒舌であることが
常に何かをうまく伝えられることとイコ−ルであるとは限らない
ときに言葉少なな囁きが
すべてを伝えることもある
どこかの誰かはこう言った
真実は常に小さな声で囁かれる、と
やはり僕にはわからない
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