2001年04月30日(月曜日)
正義とは?
正義なき力は暴力であり、
力なき正義は無力である
では、正義とは何か。ここで注意しなければならないのは、「正義」という言葉の意味は決して「正しい」ということとイコールではないことである。いくら理想を掲げて正義を唱えてみても、それは「正しい」こととは限らない。あるいはその理想は正しいかもしれない。そして力も伴っているかもしれない。だが、その「力」の行使の方法を間違ってしまえば、それはやはり「暴力」になりえるのではないか。あるいは、「理想」そのものが「理想」の段階で終わってはいないか。「理想」というのはあくまで主観的なものであり、個のものとして始まる。主観は常に絶対のものとしては存在しえず、絶えず周囲の反応に曝される。この場合周囲とは客観ではない。周囲もまた各々の立場からの主観に過ぎないからだ。その中で「理想」という主観を周囲の「主観」にぶつけ、「間主観」としての妥当性を探っていくことで「理想」は洗練され、受け入れられていく。妥当であることは妥協ではない。主観と主観の間にあるギャップを埋めていくことだ。それができなければやはり「理想」は個のままでとどまり、周囲に受け入れられることなく孤立していく。そして孤立した「理想」の行使は同時に暴力になりえる。それは周囲の主観にとっては受け入れられないものだからだ。それは周囲の主観には「理想」としてではなく「狂気」と受け取られるかもしれない。「理想」の難しさ。それは個として孤立したままでは「理想」として作用しえないところにある。主観と主観の間を探る、それは妥協でもなければ敗北でも決してない。ただ「理想」をより高めるための止揚である。弁証法哲学はその意義を問いかけた。現象学はその立場を深めた。もう一度考えてみよう。個としての孤立した理想ではなく、間主観的立場から妥当性を得られる理想こそが「正義」として機能し得るものではないだろうか。今、私はここに「正義」の意味を再定義する。「正義」とは「間主観的立場から妥当性を得られる理想」である。その定義のもと、再び最初の言葉に今帰ろう。
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