2000年07月18日(火曜日)
無意味を超えて
人生が無意味に支配されているとある人は言う。生きることも何もかも、悠久の時の流れの中すべては無意味だと。私は言う。すべてに平等な無意味なら、我々の生は無意味ではないと。すべての物に与えられる虚無はすべての物の前提となり、それは空気のように意識されえず、また意識したところで何も変わらない。すべて差異あるもののみを我々は意識できるし変えていけるからだ。すべてが無意味であるならその無意味は意味を持たない。いや、言葉が適切ではなかった。無意味はその定義を失効せざるをえない。
人生が無意味だから嘆くのではない。人生が無意味に感じられるから嘆くのだ。人生が楽しいのではない。人生を楽しく感じようとするから楽しいのだ。我々は人も草木もすべて含めて、万物何一つ同じではない。それは差異であり個である。外面の差異、内面の差異、あるいはその境界の差異。アイデンティティが失われたから彷徨うのではない。アイデンティティが失われたように感じるから彷徨うのだ。厳然たる何らかの差異の下、我々一人一人はれっきとした個である。群に埋没したと思えるその時も、我々が個でなくなる時は世界が溶解する時である。差異なき人生は我々の死である。
まだ人は問う。まだ人はもがく。まだ人は苦しみ、まだ人は嘆く。それは誰かを救うかもしれない。それで自分も堕ちるかもしれない。また人は悦ぶ。また人は赦す。また人は微笑み、また人は立ち上がる。それは誰かを傷つけるかもしれない。それで自分は前へ進めるかもしれない。また何かがぶつかる。また誰かとぶつかる。人も草木も、風も大地も、正義も悪も、義理も情けも、論理も感情も、歌も祈りも、愛と憎悪も、関心と無関心も、原子と電子も、何もかもが何かとぶつかる。アンビバレンツは最大の正論、逆説は必然の真理。それでも生を愛し、それでも人を愛す。そこには無意味はどこにもない。無意味はすべてという言葉の下に、差異をなくして失効した。それでもまだ根底に存在する無意味を感じるというのなら、踊れすべての事象を抱え。無意味に踊らされるその前に、自らですべてを踊ってしまえ。悲劇も喜劇もすべてを抱え、涙を流して踊る道化のように。
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