1999年03月07日(日曜日)
ギターを弾くことについての無限問答
ふと、今自分は何でクラシックギターを弾いているのだろうとか思ってしまいました。思えば大学に入った当初は軽音楽部に入ってそこで伝説のギタリスト(or ボーカリスト)になろうという壮大な計画を胸に抱いていたというのに・・・。大学にきて始めて観た軽音のライブのあまりのレベルの低さに絶望し(といっても今観てみればそれほど酷くはないのですが、どうやらそのときは外れのバンドに当たったようです)、清心館549にあった黒板情宣を見てクラギタの新歓に(演奏が終わってから)行き、そこでKIYO & 糸さんと出会ったのが運の尽きとばかりにその道へ・・・。そうじゃ! キサマじゃ、KIYO!!!!! キサマさりげなく人の人生変えてるんだぞ!!!!!! omuの人生もキサマが変えたようなもんだろ。いや、きっとそうに違いない。まぁわしゃそれでよかったと思っているのだがね。そう、それが始まりだったんだよ・・・。
それでまぁなんやかんやでクラギタに入りタルレガやって、適当にやりたいように曲やってここまで来ました。今じゃクラシック技術部長なんて役職にもついて、ちゃんとした先生にも習いに行ってまでギタ−弾いてます。でも、それでどうなるんでしょう? いくらギターうまくなったって、俺はKIYOのようにその後ギタ−関係の指導に就きたいと思っているわけでもなく、金やU-yanのように音楽関係の仕事に進もうと思っているわけでもない。今は好きで弾いてて、弾く時間があるからいいけど将来仕事が始まったら今やってることはどうなるんだろうと。探せばね、そこらのオッチャンでも「若い頃はギターやってたよ」っていうヤツたくさんいるんですよ。でもオッチャンになってもまだギタ−弾いてる人ってほとんどいないわけで、やはり仕事に就いて日曜とかくらいしかギタ−弾く時間が無くなってきたら自然とギターと疎遠になっていくのかなとか思ってもみたりして、実に微妙な心境になってます。そうするとね、今あれこれ必死でやっていることってその時一体どうなるんだろうな、って・・・。今はそれこそ必死ですよ。技術部長としての責任もあれば、弾きたい曲をイメ−ジ通りに弾きたいという願望もあり、その願望はあれどいくらやっても自分の頭の中でなっている音に現実の音が近付いていってくれないというもどかしさがあるから、そのギャップを埋めようと必死にやってます。ギターでも歌でもあるいは卓球でも(わしゃ中高卓球部だったので。中学の時は部活ムチャクチャ燃えてたんだぜ)、自分のイメ−ジ通りに体が動き現実からの答えが返ってくる瞬間の興奮と充実感、まぁ大袈裟に言えば感動ですね、は同じだし、その感覚が忘れられなくて、また極限まで背筋が震えるような快感を味わいたくて、そのイメ−ジに近付こうと必死でやるわけです。それこそ単純に指が動く動かないのレベルから、ビブラートのニュアンスとか、低音弦の擦か音とか、音色の研究だとか、フォ−ムの改善だとか、課題を挙げ出したらキリもなくなるほどに。でも今そうやって、時にギターを弾くのがイヤになって苦痛に感じるほどに頑張っていても、それが一体どうなるのかとか、ふと考えてしまって止まらなくなってしまいました。でもそう考えれば考えるほど、何故かしらないけどギターを今この手に取って弾いて弾いて弾き倒したくなるんです。そしてそんな虚ろな考えを吹き飛ばしてしまいたくなるんです。そして自分のイメ−ジを現実にトレ−スできる快感を求め、それができないもどかしさに襲われ、また漠然とした脱力感の中自分がやっていることを無意味に感じ、でもそうなるとまた何故かギタ−が弾きたくなる・・・。無限問答ですね。ギターは私にとって大きな浄化作用を持つものであり、何かに行き詰まった時にはやはりなんとなく手に取りたくなるんですよ。でもそれが最近技術的な面から限界を感じ、それに技術部長としての責任が加わった段階で歪みが生じて問いは永遠に繰り返すわけです。ずっと独学でやってきたとはいえ、中2の冬に初めてギターを持ってからはや7年・・・。それだけ時間が流れても自分はまだこの位置にいるのかと思うと少しイヤになりますね。多分そこがこの無限問答の始点にあるのだと思います。そう、俺はまだこの位置にいるんですよ。大学からギターを始めて、それでも俺より先の方までいっちゃってるのもいるというのに・・・。
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