1999年03月21日(日曜日)

卒業式の日に過去を想う

 今日は大学の卒業式がありました。生憎の雨で送る側も送られる側も晴れ晴れとというわけにはちょっとなりにくかったのですが、まぁそれでも先輩達の一仕事終えて充実感のある顔は見てて気持ちのいいものがありましたね。

 で、我々は今日は部活の恒例行事として、式を終えて体育館から出てくる先輩達を花束持って出待ちしていたわけですが、それが雨のせいかムチャクチャ寒い!!! あれはちょいときつかったですね。でもとりあえず卒業する先輩の姿を全員分カメラに収め、なにげにOB会費の徴集もしつつ皆さんを送りだしてきました。ある人は紫のス−ツに派手なネクタイとえんじ色のマフラーで黒のグラサンをかけ木刀を持ち、またある人は上下黒の拳法着に身を包み、ヌンチャクを持って卒業する同期生(爆)の見送りに来たりしていました。本人曰く「いやがらせ」だとか・・・。しかしそのいでたちに本気でツッコミを入れる人も意外と少なく、その事実にとても寂しそうにしていました。やはり卒業は人間ドラマですね?

 しかし卒業式の帰り道って何か妙に寂しい気分になったりしません? 私は高校卒業の時、2次会のカラオケが終わった後いつもの仲間達と別れポツンとバス亭でバスを待っていた時、いいようのない寂しさに襲われた記憶があります。色々あった高校生活もこれで終わりなんだなと思うとね・・・。そのことを今日一緒に帰っていた人に言ったら、自分も今そう思っていたと言いました。そして一人になってから、ふと自分が高校卒業の時に思ったこと、高校時代の(あるいはそれは今も脈々と私の中に息づいている)自分なりの美学というか人生観について思いました。

 中学卒業の時に精神的に一回死を迎えて、自分の中で高校生活というのは新しく1から自分を組み直していく過程にありました。そこで運よく素晴らしい仲間達に恵まれ、やりたいことをやって生きたいように生きてみた結果、人間という不思議な生物のいい面も悪い面も肌で感じて経験することができました。こう書くと高校生風情がなに悟った気になってんじゃとツッコミ入りそうですが、でも実際そうなんです。結局経験なんて比較することはできませんから、極論すればどんなありふれたものでも本人が大切だと感じればそう感じただけ大切なんですよ。それを他人が否定するのはその否定した人にとってその事実が大きな意味を持っていないだけで、当人にとっては当人にしかわかりえない(そして逆説的に当人にも理解しえない)大切さがあるのです。その意味で、客観的に見てどんなに他人が凄いと思う体験でも当人がそう思ってなければそれは当人にとって何の意味も持たないただの事実にすぎないわけで、その意味でやはり人生は自分次第なんだと思います。私の高校時代は、それは有意義なものでした。いいことばかりでなく、悪いことも含めてです。むしろいいことばっかりだったら「あの頃はよかった」と振り返ってそこに逃げ込むだけの避難所としての過去にすぎなかったのではないかと思います。ところがそうではなく、人間関係のよい部分も悪い部分も、極端すぎるほどの勢いでその当時の私にぶつかってきて、本当に素晴らしい黄金時代と言ってもいいような時間から、ドロドロした猜疑的要素の塊の複雑な人間関係の中、必死で手の中のものを守ろうと四苦八苦していた時期までありました。まぁ混乱期は本当にコアな部分で関わった人以外にはそれほど表面的に私に起こっている何かは見えなかったでしょうけど。詳しくは書きませんがそりゃあ色々ありました。その中で得た何かが自然に自分の中に根付いたり、浪人している間にある程度自分の意志でまとめたりして今の私があるわけで、その意味で私の高校時代は決して無意味ではなかったと思うし、今も私の土台としてその日々が存在しているわけです。今日卒業していった先輩達にとって大学生活とは一体何だったのでしょうか。後輩がこんなことを言うのも差し出がましいとは思いますが、それが彼らにとって人生の土台となりえる素晴らしい時間であったことを祈ります。そして私が卒業する時、私はその過ごした時間について何を思うのでしょうか。今はまだそんなこと見当もつきませんが・・・。

「今自分がやっていることの答えは、忘れかけた頃に時が教えてくれる」

 私はそう思います。

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